
ロシアの勲章授与者でコーチであるエテリ・トゥトベリーゼがインタビューに答えるのは稀である。しかし同氏のインタビューを聞いて多くの人が大変驚く。CSKAの監督を務めサッカーロシア代表チームを指導した経験も持つレオニド・スルツキーがトゥトベリーゼにあらゆる質問をした。ボリュームのあるインタビューとなった。
今年の9月エテリ・トゥトベリーゼによる氷の宮殿なるものがオープンするとの情報がありました。その宮殿は最高のインフラが整っているとか。詳しく聞かせてください。
最高ではないかもしれません。他の施設と比べてないのでわかりません。自分たちがいいと思えるものを作ろうとしたのです。調整中の部分もあるので最終的なオープンはまだです。まだオープン準備中ですが、2、3週間のうちにオープンできるようにしています。
どれくらいの労力を割きましたか?あなたにとってどれほどの意義をもつのでしょう?
多くの労力と、たくさんのエネルギーを注いでいます。ある時ふと思いました。「このプロジェクトはこんなに力を入れて取り組むほど本当に重要なのか?」と。自分の可能性を100%注いでいます。それ以上ではないかと思うときもあります。もっと働ける、という意味ではありません。子供たちにより大きな可能性ができます。体力的にも精神的にもできる範囲で取り組んできました。
始まりは2018年からです。最初に土地を巡って訴訟がありました。なぜか一部の土地については争う必要があったのです。私は固執したわけではなく、どんな土地でも良かったのです。訴訟が進んでいた間に、インフレのせいで提供された資金では足りなくなりました。さらに資金を集め、すでに準備できていた計画を見直す必要がありました。
新しい宮殿では全てが予定されていた通りですか?
まだわかりません。わずかな違いは確実にたくさんあるでしょうね。すでに滑稽な状況が発生しています。リハビリエリアを計画したのですが、なぜだか男子更衣室に行くのに女子更衣室を通らなければいけないのです。逆も同様で、女子更衣室に行くのに男子更衣室を通る必要があります。動線を考える必要があります。面白い状況になりました。
宮殿には何があるのですか?
アイスリンクが2つ、ダンスホールが10、トレーニングルームが2部屋、溜池のあるリハビリゾーンです。本当に巨大な空間です。計画段階では、コンパクトだと思っていたんですけどね。完成したら…というのは冗談で、初めからリンクを移動するにはナビが必要だと思っていました。建設の初期段階から関わっていますが、他の場所への行き方はいまだにわかっていません。
「クリスタル」が恋しくなりますか?
そのスケートリンクは残しません。「あなたたちは新しいリンクへ行って、私はここに残るから」と冗談を言うことはありますけどね。ある場所から他の場所へ移動するのは辛いものです。私にとってもストレスになることです。
スケートを始めたきっかけは?誰に連れていかれたのですか?
私の家族では子供はみんな習い事をしていました。子供は全員、です。一時期、私が4歳だったときに兄がサッカーをしていた「青少年スタジアム」に私も一緒に行っていました。サッカー場には連れて行かないでくれ、とお願いしていました。そこには半透明ガラスの壁があり、子供達が滑っている様子を見ることができたのです。まるで雪の結晶が舞っているかのようで魔法のようでとても綺麗でした。すごく気に入りました。そして、兄についていくだけで自分は何もしない、というのにあきあきしていました。フィギュアスケートをさせてもらえるようお願いしました。母は「スケート靴を履いたこともないのに、入れてもらえないわよ」と笑いましたが、私は「入れてもらえる」と答えました。
連れて行ってもらい、その辺にあった誰かのスケート靴を履かせてもらいました。スケート靴を履いてアスファルトの上を走れるようになったらもう完璧だし、リンクの上でもバランスを保っていられる、と思っていました。ちなみに、アスファルトの上を走るときにスケート靴にカバーをつける、という考えは誰にもなかったようです。そうして2時間走りました。そのあとでやっとリンクです。コーチの元まで行けない、ということに気づきました。コーチは前に出て、自分の元へ来るよう私含め子供たちに言いました。最初にコーチの元へ行けた人が優秀だと思いました。そして私は四つん這いでとにかく早く犬のように這っていって、コーチのズボンの辺りで立ち上がり、「私が1番です」と言いました。そして私は入れてもらえました。
あなたの性格からして、うまくいかないのでは、と強く心配されることでしょう。というのも遺伝子レベルの野心をお持ちのようなので。そういった精神的な問題はどう乗り越えていますか?
難しいです。自分より劣っていると思っている選手が国際大会で戦って、勝利している、というようなものです。自分はいつまでもパートナーを探している段階。自分は優秀だというのに、自分よりも優れたパートナーがたくさんいる。今はより上の世代になり、自分は中くらいだと思っています。当時は、ハイレベルにいると思っていた。
そういった経緯でアイスショーへ転向したのですか?
そういうわけでもありません。パートナーを待ち続けて、見つかりました。私の過ちだったのですが、毎回ヒステリック気味になってしまって次々とコーチを変えていました。変えてから、間違いだったとわかるのです。パートナーになった人に、コーチは他の女性選手を勧めるのです。パートナーになって、新しいコーチの元へ行くと、パートナー解消になって…。何も約束はされていません。
つまりケアされないということ?
そうです。宙ぶらりんの状態になってしまいます。中高生くらいの子にはそれが理解できません。約束されたからには、人生がうまくいく、と感じられます。今も同じ現象が起きています。約束されると、スポーツ選手は別の場所へ行ってしまうのです。公式にリンクへ出ると、誰にも必要とされなくなってしまうのです。どこでもそういった状況です。私も同じような目に遭いました。
そういったときに私はヒステリックを起こしていたのですが、アメリカに行くアイスショーを提案されました。当時はよくわからないペレストロイカの時代で、全てが突然高騰していたときでした。
ということは90年代の初めですね?
そうです。振付師がやってきて、私の元に来て、レッスン料として月に100ドル支払うよう言われました。つまり、私は両親に「毎月100ドルちょうだい」と言わなければならなかったのです。ペアを組んでおらず、どうなるのかもわからないような状況で、ですよ。初めはその振付師の元へ通わないようにしましたが、支払わずにいることはできませんでした。100ドルの月謝のことを常に言ってくるのです。そんなときに、スポーツではなくショーに出て、100ドルの出演料を提案されたのです。とんでもない金額だと思いました。
アメリカにはどれくらいいましたか?
ショーは氷上で行うロシアバレエでした。モスクワで2回滑った後にアメリカへ渡りました。パスポートをどこでも作れた時期だったので、いざこざがありました。劇団員の半分は他の町出身だったのですが、パスポートはモスクワで作成しました。国境を越えるときになって、パスポートは居住地で作成しなくてはならないので違法だ、と判明したのです。劇団員の半数は渡航できませんでした。モスクワ出身の団員だけが渡航でき、残りは全員パスポートを作りに帰郷したのです。これに1ヶ月かかりました。パスポートが完成してアメリカに到着したら、今度はプロモーターに断られました。というのもショーの日程はすでに取り決められていたからです。
私たちはオクラホマにただいるだけになってしまいました。なぜオクラホマだったのか?劇団員の半数と一緒にニューヨークへ渡航しました。1番安い待機場所はオクラホマだと思ったのです。私たちはオクラホマへ連れて行かれ、1ヶ月間残りの劇団員を待ちました。彼らがやってきたときには、私たちは用無しだと言われたのです。それからどうしていけばいいのか、全くわかりませんでした。最初はみんなバラバラになりたくないと思いました。全員いれば、ショーをできると思っていたのです。支配人も同じ意見で、すぐに他のプロデューサーを見つけてショーをできると思っていたのです。実際は、そんなに簡単なことではありませんでした。私たちは特に何もするわけではなく、教会をまわって祈祷後にご飯がもらえるようにしました。ご飯といっても、ちょっとしたパンや飲み物だけです。何かを食べるために教会をまわり始めたのです。私たちは青少年キャンプに連れて行かれ、観客の前で踊りました。お金のためではなく、踊った後に食べることができたからです。その後、YMCA(キリスト教青年会)に移り、空き部屋を与えられました。4階や5階にはホームレスが住み、私たちは7階に住みました。
その時期を振り返って、どう思いますか?
たぶん、何も後悔はしていません。YMCAに住んでいたとき、パートナーがピザ屋の皿洗いとしてアルバイトを始めました。2時間のアルバイトで1ドルとピザがもらえました。私はパートナーがピザを持って帰ってくるのを待ちました。
ジェントルマンですね。
彼は他の人にもピザをあげていましたよ。
そういった状況はどれくらい続きましたか?
テロまでです。
爆撃地の近くにいたのですか?
向かい側にいました。YMCAの前の道を挟んで連邦政府ビルがありました。
つまり、事件の目撃者だったのですね?
そういうことです。
事件後、何をすべきかわかったと…
それまでにもなんとかしようとはしていました。支配人と衝突し始め、食べるために教会にいくことはなくなりました。なのでパートナーが皿洗いを始めたわけです。なんとかして食べていく必要がありましたから。支配人が全員のパスポートを持っていたので、私たちはいくらか弱気になっていました。なので衝突し始めたのです。逃げ出したい、ということもできませんでした。ある時、こんなことは意味がない、とわかったのです。私はパスポートを返してもらうようお願いしました。パスポートは返してもらいましたが、ご飯はもらえなくなったのです。そして言い合いになってしまったので、ロシアバレエを続けるのは私たちの道ではない、と言ったのです。
爆発があったとき、パートナーと私はロシアバレエから少し離れていました。その後、みんながどうなったかはわかりません。家族のように暮らしていましたが。ディズニーに就職した人もいたようです。ビリー・ビタックが私たちを採用してくれ、1年間いろんな公園で働きました。その後は去っていきました。
何年間働いたのですか?
全部で6年です。
帰国の決め手となったのは?
パートナーが、もうショーに出たくない、と言ったのです。ショーはやめて、何かしらビジネスをしたい、もうショーには興味がない、と。私たちはテキサスのサンアントニオにいきました。コーチとしての給料が1番高い州でもあります。そこでコーチをはじめ、1年半ほど暮らしました。
つまりコーチとしての活動はアメリカで始まったのですね?
実は、まだロシアにいた時からプログラムを書こうとしていました。当時は滑稽でした。プログラムを書くと、お菓子がもらえるのです。
あなたの元にやってくる子供を指導していたのですか?
みんなです。アメリカでは子供だけを指導することはありません。断ってはいけないし、断ることもできません。91歳のおばあちゃんもいました。そのおばあちゃんとワルツを滑っていたときには、もし踊っているときに何かあったらどうしよう、と思っていましたよ。おじいちゃんもいましたし、私のレッスンを受けたくないだろうな、という男性もいました。とはいえ指導はします。ダンスの指導もしました。向かい側に現代芸術の学校があったのです。子供のためのダンスや大人向けのリラックス用クラスも指導しました。とても多くのことをやりました。あるとき、疲れたどころではなくなりました。「これがアメリカでの私の生活で、こうやって生きていくんだ。尊敬し、愛され、評価してもらえる」と気づきました。そういった自分の人生でした。ただ、私には何かが足りていませんでした。
そして帰国をしたと?
まず、両親がとても恋しかった。今のような電話でのやり取りはなかった。専用カードを買って、20桁のコードを押すと7回音が鳴って、繋がったり繋がらなかったりして、お金がなくなり時間切れ、という感じでした。ファックスを使ったやりとりもしました。両親にファックスを買いました。A4の用紙を小さな文字で埋めつくして送るために1ドル払いました。返事が来るのを待ちます。手紙のようにやり取りをしていました。
そうして帰国を決めた?
両親のもとへ戻りたかった。お家へ、ママ、パパのもとへ帰りたかった。別の見方をすれば、アメリカにいるように結びつけるものが何もなかった。教え子に対する良心はあったので、彼らの前では帰国するのが気まずく、誰かが私の代わりに指導してくれるよう1週間で誰かにお願いしなくてはならなかった。トレーニングメニューをたくさん書いた。あるとき、落ち着いてロシアで生活して、何がしたいのか知るべきだと思ったのです。もしそういったことが難しくて自分に向いていないのであれば、もう一度アメリカに行って、なるように生きるつもりでした。
「自分は偉大なコーチになると初めからわかっていた。この目的のために一生懸命やってきた」というような感じではなかったのですね。
私のことを「アメリカでは何もうまくいかなかった」と評価しているのをときどき目にします。まず、成功するほど多く指導したわけではありません。指導した中では、子供たちは上手に滑り、上達しましたし、誰よりもジャンプできるようになりました。私はこういったことを自分の目で見ました。選手が他のコーチの元から私の元へやってくるのも見ました。私のプログラムが変わっていたからです。この点についていえば、仕事量はとても多かった。もしかしたら、アメリカでうまくいったかもしれない。もしかしたらうまくいかなかったかも。オリンピックチャンピオンを育てるために指導してきた、とは言えません。そういうふうに指導するわけではありません。小さなスポーツ選手がいて、その子のレベルの中で勝って欲しい、と思って指導します。シングルアクセルが飛べた、素晴らしい。ダブルアクセルが飛べたならもっと素晴らしい。具体的な課題を出せば、成長していきます。
モスクワに到着したとき、スケートが恋しいと気が付きました。リンクに出て、何かをしなければ、と思いました。起きて、何をすればいいのかわからない、という状態でいたくありません。ただ家にいる?ママやパパといるのもいいことですが。アメリカではいくらか稼ぎました。とはいえ稼がないと、使ってしまうばかりです。問題はお金ではなくて、何かに取り組んでいたいのだ、と気づきました。スケートリンクが恋しかったので知っている道は全て歩き、滑ったことのある場所は全て行きました。「青少年スタジアム」にいきましたが、「ポストは空いていないし、当分は空くことはない」と言われました。次の年まですべてのポストが埋まっていました。ダンスで滑ったことのあったCSKAに連絡しました。空きはない、と言われました。イエローページをめくり、スケートやリンクと関係のあるところを探しました。氷上サーカスというのがありました。氷上ですよ?連絡したら、何らかのグループを集めたもののようです。ブラチェーボに来るよう言われました。行ってみると、空気でふくらました舞台で、サーカスです。健康目的のグループなどがありました。3、4歳の子供、6、7歳の子供などがいました。1年間そこで働きました。その中には後に「モスクヴィッチ」で滑ることになるポリーナ・カラベイニコワがいました。私は子供たちに「モスクヴィッチ」へいくよう言いました。子供たちはブラチェーボの近くに住んでいました。私がスケートリンク「セレブリャニィ」に移ってから、通うのが遠くて大変だったからです。移動時間が大変そうでした。なので「モスクヴィッチへ行きなさい、入れてもらえるよ」と言いました。ゼレノグラードでも週に3回指導しました。ゼレノグラードの子供たちは週3回だけでは全然足りないので滑れる場所を探している、と言っていました。スケートリンク「セレブリャニィ」に貸してもらえるリンクを見つけました。
「セレブリャニィに行って、貸してもらえるよう話してきて。もう電話はしてあるから、すべて用意できてるはず」と言われました。貸してもらえるかはよくわかりませんでしたが、とりあえず行き、館長に話しに行きました。書斎をノックしました。廊下には漠然とした慌ただしさが広がっていました。入っていったところで、誰も知りません。どこからか秘書がやってきて、何か言いました。館長であるリバリスキー・バーヴェル・ヨシフォヴィッチに会うにはどうすればいいのか聞きました。「あっちへ行ってください」と言われました。入っていき、ノックしました。来るべき人物ではない、と思われたことがわかりました。
慌ただしさはあなたの登場によって出たものでしょうか?
違います。何が起きていたのか、私には全くわかりません。生徒の親が文句を言ったとかで、コーチがクビにされていました。そのときは子供たちはコーチなしでリンクに出ていました。子供たちは小さく、4歳の子はコーチなしではリンクに出れませんでした。私がノックしたら、「誰だ?」と館長に聞かれました。「コーチです」というと、「早くリンクに行って。話している時間はない。」と言われました。リンクに出ていき、グループを指導しました。話をしに出ようとすると、「こっちじゃない」と言われ、すぐに秘書室へ行くよう言われました。「書類は持ってきた?早く書いて」と言われました。そして自分から辞めたのか、辞めさせられたのか、のコーチが指導していたグループのコーチになりました。そのグループにいたのがポリーナ・シェレペンです。
とても大きな仕事ですね。
担当したのはそのグループともう1つ、見捨てられた子たちのグループです。氷はそんなに多くなかったのですが、子供たちはたくさんいました。誰がいるのか、すぐにはわかりませんでした。
そこで指導することができたのですね。
そこはホッケー用のリンクだったので、1週間くらい氷が持っていかれる、ということがよくありました。「ゴールデンホッケー」プログラムといっていつもホッケーの練習が行われていました。そんなときにはわたしたちはリンクの上をぶらぶらするだけで、朝の6時から7時の間だけ「モスクヴィチ」に通されました。というのも7時には幹部が来ていたからです。私たちはリンクの3分の1だけを使って滑り、指導部に気づかれないようにしていました。その後は走って帰る必要がありました。
そこではモスクワ選手権のような大会は行われていましたか?
次第に行われていくようになりました。最初は小さい子向けの大会でした。1位から3位を私の教え子が独占しました。2年続けて私の教え子が表彰台を独占したので、自分が興味をもたれていることに気が付きました。そのあとに分かったのですが、その人物はユリア・リプニツカヤの母親でした。彼女もその大会に参加していたのです。後に彼女たちがやってきたとき、私は大会で見たことがある、と思い出したのです。
当時あなたの生徒がリプニツカヤに勝ったのですね。
そうです。大会では生徒たちは1位から3位を独占しましたから。上手な選手が成長した時は私にとって決定的な瞬間です。というのも、ロシア選手権に出場するべきですから。
そのときは女の子だけだったのですか?
いいえ、去っていってしまいましたが男の子もいました。私たちのリンクには条件が少し足りていませんでした。才能ある子供が悪条件で育っていることは連盟も気が付いていました。連盟は時に、親に対して子供の才能をダメにしないようアドバイスしていました。才能があるように感じられるだけの場合もありましたが。才能ある子供が育つか、という問題です。男の子だけではなく、女の子も同じです。連盟は「あっちに行った方がいい、条件が揃っているから」と助言するのです。私の元にはヴラドとイェゴールというタラシェンコ兄弟とメドヴェージェワ・ダリヤという選手がいました。彼らは招待され、ペテルブルクへといきました。彼らがそこへ連れていかれたのは、私の元には条件が整っていなかったからです。連れていかれた次の年にダリヤに勝つことはできません、というのも彼女には私が作ったプログラムがあって、素晴らしいジャンプ力もあるからです。私の他の生徒は2位と3位になりましたが、1位は彼女でした。ガイニヂノワ・カミラは「モスクヴィチ」へ、アレクサンドラ・デェーエヴァはCSKAにいきました。そして私の元に残ったのはポリーナ・シェレペンだけでした。
条件を揃えるためには儲けが必要だったようですね。
考えてもみてください、3歳や4歳から育ててきてようやくジャンプできるようになったのですよ。子供たちは素晴らしくて、これからも育てていこうと思っているところです。それだけ素晴らしい子供たちなので誰にも負けません。当時、ダリヤは両手をあげてルッツを跳んでいました。スピンもダンスもジャンプも上達しました。そんなときにすべてがもっていかれたのです。私のもとに残ったのはポリーナ・シェレペンだけです。悔しかった。また一から始めないといけないような感じでした。当時はミーシンにも怒っていました。何といってもすぐに2人の選手が私のもとから連れていかれたのですから。その後カンディバ・スヴェトラーナ・ペトロヴナから連絡がきました。「セレブリャニィ」はCSKAの隣にあります。CSKAでは定期的に子供たちが追い出されていて、そういった子は私たちのもとへやってきました。下手ではないのに追い出されていた子もたくさんいましたよ。何らかの事情で、たとえばコーチが育休中とかで、グループがなくなることもありました。ジェーニャ・メドヴェージェワもそういった追放に遭いました。カンディバから彼女を託されました。母親もスケートをしていた、と言っていました。ちなみにプリーネルもそうです。CSKAで滑っていたのかはわかりませんが。
そのようにしてあなたのもとにメドヴェージェワがやって来たのですね。
カンディバから連絡があって彼女を託されたからには、「上手でも下手でもお願いされた以上は受け入れる」と決めました。まだ小さな少女だったので、やってみる必要がありました。
当時彼女は何歳でしたか?
彼女がやってきたのはおそらく9月の終わりでした。10月だか11月に7歳になりました。少しひょろひょろしていて足も細く弱い感じでした。シングルアクセルのようなものを真似ていた感じです。
CSKAでメドヴェージェワは将来有望でなかった、という話は初めて聞きました。
CSKAから追い出されたのですから。
あなたが「クリスタル」に移るまでどれくらいでしたか?
彼女がやってきたのは9月の終わりで、「セレブリャニィ」でのスケジュールがとても難しくなりました。もっと多くの氷が必要で、私のもとではシェレペンがロシア選手権に向けて準備していました。ぶらぶらしている場合ではなかったのです。選手権でメダルを獲得したというのに、私たちのスケジュールは変わりませんでした。つまり、練習しに行くと1週間も氷が持っていかれている、ということが多々ありました。その時は氷に色をつけて印をつけたかったのですが、練習はまたもやキャンセルになりました。私はヒステリーを起こしました。すでにスクールから声を掛けられていたのですが、私は他の場所へ移るのが苦手なのです。それより前にも8月には選手が他のリンクへ移っていき、すでにイライラしていました。私も移ることを考えました。リンクへ通うのは時間がかかっていました。渋滞にはまると気が狂いそうになります。そうこうしているうちにもう耐えられなくなり、「クリスタル」のトップに連絡し、「明日から働かせてもらえないか?」と聞きました。「いいですが、私たちには決定権がありません」と言われました。これが12月の終わりのことです。モスコムスポルトのナゴールニィ・ユーリ・ドミトリヴィチの元へ行きました。
彼は今サッカークラブ「ロコモチーフ」の会長ですが、ご存知でしたか?
どこかで聞きました。彼によろしくお伝えください。残念ながら彼のような人はスポーツ界にはいません。博識でやり手です。彼に何も言わなくても、すでに対応してくれている、ということも何度もありました。当時、彼のもとへ行ってこう伝えました。「ユーリ・ドミトリヴィチ、私たちは移籍しなくてはならないのです」と。驚くことに、彼はすべて把握していたのです。私たちは第8青少年スポーツクラブのメンバーであるということも。彼は私の教え子たちを知っていたし、私がある年齢の子供たちを指導する優れたコーチであることも知っていました。私は心の準備ができていませんでした。彼は「いいよ」と言いました。「いつから移る?」と聞かれました。私は「明日から」と答えました。すると彼は館長のアクショーノフ・エドゥアルド・ミハイロヴィチの方を向き「明日からスケジュールを変えてもいいですか?」と聞きました。アクショーノフは「はい」と答え、そうして次の日から私たちは移動してきたのです。
創造をするあなたのような人にとっては、プログラムが人々の記憶に残ることが重要ですね。私はリプニツカヤの「シンドラーのリスト」をよく覚えていますが…
音楽も私が長いこと探してようやく見つけ、プログラムの演出家を説得しました。
プログラムが人々の記憶に残るということは、そのプログラムが大会を制したかどうかにかかわらず重要なことですか?
プログラムを作るときに重要なのは、観客からの「こだま」を受けること。私が最後にそういった「こだま」を受け取ったのは、オリンピックでのカミラ・ワリエワのショートプログラムです。
子供たちは滑っていることをわかっていないのではと思うことが時々あります。というのも、私たちが経験してきた出来事を子供たちの演技を通して伝えようとすることが相応しくないのかもしれません。子供たちの演技を通して感じとってもらいたいように伝えることができて初めて、観客に届くのです。見ていると、違うふうにしないといけない、と思うことも時々あります。
あなたはスポーツを変えている、というのはわかっていますか?たとえば、平壌オリンピック後、プログラム後半に全てのジャンプをもってくるのがいかがなものか、と議論を巻き起こしました。そういったザギトワの演技があってからは、ルールが変更されましたね。アイデアはどうやって生まれるのですか?
そうですね、私たちのチームがスポーツを変えた、と言われていますね。私たちはライバルを離して最大限の点数を獲得できるようにルールを逆手に取ってルールの範囲内でやっただけです。最初は後半のボーナスポイントでした。それだけでは十分でないとわかったので、より加点されるようなプログラムを作ったのです。そうやって、毎回私たちはライバルを引き離していたのです。
最近ではフィギュアスケートファンはサッカーファンよりもアグレッシブで知識もある、と知っていますよね?誰がきっかけでそうなったか、ご存知ですか?
さあ、誰がきっかけでしょうね…
あなたがオリンピックチャンピオンを育て上げ、あなたがもはや人間ではないようなレベルまで上げたからです。前はアクセルとトウループの違いがわかる人はわずかでしたが、今ではスピンのレベルまでみんなわかっています。あなたは自分の仕事をしていたのでしょうが、同時に議論して罵り合うようなファン層も育ててきたのです。ドラマ「最後のアクセル」は観ましたか?
観てません。広告を見たときに、私をパロディーしようとしている、とわかったので。嫌な気分になったので1話も観ていませんし、観たくもありません。
もはやあなたの意思とは関係なく有名になったからでしょうね。あなたをモデルにして作成された…
どうやって私をモデルにして作成したのでしょう?私もコメントを読みました。トゥトベリーゼがリンクに現れると子供たちは挨拶をするけれどトゥトベリーゼは罵るだけ、とテリュシコフ議員が言っていた、と。フィギュアスケート界のレジェンドであるロドニナやべステミアノワが私に関してよくわからないコメントをした、とか。私は全員尊敬していますし、自分はまだそのレベルまで行っていません。私の指導法や私がどれだけ厳しいか、言われています。そうであれば時間をつくってリンクに来て、私がどうやって指導しているか見てみてください。何も見ていないのに、何を知っているというのでしょう?言われていることは全て嘘です!
みんなが、あなたのやり方の欠点を暴きたいのでしょう…
そうして何かに納得したいのでしょうね。
あなたはオリンピックチャンピオンになったロドニナではありませんもの…
それが何というのでしょう?よくあることですが、オリンピックチャンピオンはその後あまり忍耐強くありません。もう目標を達成したというのに、そのあとで何を得ようというのでしょう。
いわくつきのあなたの1番の崇拝者からの質問をしてもいいですか?
どうぞ。答えたいように答えます。
あなたは自分のしたいことを勝手にします。エテリ・トゥトベリーゼコーチの指導法への一番の文句は、時間が短いということです。たとえば指導法によって女の子の成長を「遅らせ」ていて、思春期に突入させず、ジャンプや演技要素をしやすくしている。子供たちから最大限に搾り取って、子供たちはそうやってキャリアを終える。リプニツカヤ、ザキトワ、メドヴェージェワがそういった例です。
メドヴェージェワがオリンピックで演技をしたのは18歳の時でしたよ!私のもとにやってきたのは6歳半の時。そうなるとオリンピックまでの道のりは何年ですか?まず、性的成長について。2018年のオリンピックのウォーミングアップを見てみなさい。当時胸が膨らんでいるのはザギトワとメドヴェージェワだけ。どうやって成長を遅らせているのでしょう?メドヴェージェワの場合、私のもとにいただけでも13年です。彼女はいつも不器用で仕事中毒だと私は強調してきました。彼女が私たちのもとで努力してきたように努力することは、今後はないでしょう。というのもそういった条件も可能性もないからです。なので今後はもっと厳しいでしょう。
彼女たちのキャリアは短くはありません!メダルを手にして、もう努力したくないと言っているのに、強制させるべきなのでしょうか?
アリーナ・ザギトワについて。彼女がオリンピックで滑ったようになるためには、朝8時から夜9時や10時まで練習していましたよ。いつもヘロヘロでした。1時間半準備運動をして、ダンスをして、リンクですべり、ストレッチをしてまたダンスをして、リンクに行き、また体操をしてストレッチ、という練習です。トップに登り詰めるために1年半そういった生活をしていました。そういう練習をしないと、トップにはなれません。彼女にとってはそういう練習が唯一の方法でした。とてつもない練習量が必要だったのです。ダンスをするためにはその前に紐を使った準備運動が1時間半必要だったのです。そういう状態を続けていました。まだ彼女にやらせるべきでしょうか?彼女はやりきりました。でもそういう練習をしないと、結果は得られないのです。それでも強制させるべきでしょうか?
メダルを獲得した後に、まだ練習を続けるのかどうかは自分で決めることです。夜10時に帰宅して何も食べてはいけず、どこにも行けません。彼女はまた起きて練習に行くためだけに寝ていました。彼女はオリンピックという目標のためだけに生きていました。
メダルを目指している間は、学校にも行かないし、人生で何も体験しません。トレーニング室、ダンス室、リンクだけ。あとは全身が痛むので体のメンテナンス。全身が痛むのです!オリンピックシーズンにはザギトワの足が出血するほど擦れて、靴を脱ぐときに私は気分が悪くなるほどでした。私はそういったことを隠して見せませんでしたが。そうでもしないと、彼女は我慢し続けることができなかった。ザギトワがどうやって我慢していたのか、私にはわかりません。すべてはオリンピックでいい滑りをするためです。メダルを目指すのではなく、最高の滑りを目指すべきだと思います。メダルを目指していた選手が2人いました。ジェーニャ・メドヴェージェワとサーシャ・トゥルソワです。だからああいった結果になりました。目的そのものではなく目的に向かっている道こそが私たちの人生を充実させることを彼女たちはわかっていませんでした。アーニャ・シェルバコワは毎日最も幸せな状態で目を覚ますと思う、といっていましたが、そういったことは起きませんでした。
リプニツカヤがメダルを獲得してから、あなたは幸せを感じましたか?
逆に、私は落ち込みました。ユリアは自分の滑りをすることがない、とわかったからです。彼女は自分の母親にチームのメダルを渡してしまったのです。
スケーターの引退をどのように乗り越えてきましたか?
とても落ち込みながらです。ユリア・リプニツカヤの場合はオリンピック後、両親によるコントロールが失われました。ユーリャは難しい性格です。11歳のとき彼女は招待した振付師をクビにしようとしました。その振付師と一緒にやりたくなかったからです。私は、しかるべき練習に取り組ませるようなことはしません。条件を提示するだけです。彼女の場合は対立しました。「親切な」人たちが彼女に対して、コーチのもとを去るべきだ、と言ったのです。メドヴェージェワに対しても同じことを言いました。コーチが情報を流している、と。
そういうことを言ったのは誰ですか?
頭のおかしい人たちでしょうね。
あなたのもとを去っていったもと教え子たちは、1人として成功しているとはいえません。ジェーニャ・メドヴェージェワは世界選手権での銅メダルをとても喜び、金メダルを獲得したときよりも喜んでいたようです。
彼女はカザフスタンの選手に負けたけど喜んでいましたね。
おそらく、選手たちも自分自身のことをわかっているのでしょう。ジェーニャ・メドヴェージェワが自分の頭の中でよく考えると、私たちは一緒に成し遂げたのだ、とわかってくれると思います。しかるべきものを彼女に与えることで、彼女が問題点を把握できます。なので、新しいチームに関するインタビューを不思議に思いました。選手たちは去っていき、個人に合わせたアプローチ方法があり、新しいチームで、愛される。サーシャも愛されていたし、今も愛されていることでしょう。
仲良くして、どれだけいい関係性かを話すような子が愛されるのではありません。メダルを獲得できる子、そのために自分の神経や力や人生の一部を捧げられる子が愛されます。ハグした、何か話してる、微笑んでる、だから愛されていると思われ、笑っていない、つまり愛されていない、と思われるのですが…
リプニツカヤについて、難しい性格だとおっしゃりましたね…
私たちは離れつつありました。彼女が去りたがっていると確信したのは、フランスでのGPのときで、ショートプログラムだけを滑ったときのことです。彼女はフリーを滑る準備ができていなかったので、彼女にとっては好都合でした。彼女は私に対して厳しくあたり初めていましたが、私は彼女と一緒にフランスに行くと思っていました。私は姉がフランスに住んでいますから、このGPのチケットを買って私たちは会う約束をしていました。すると連盟から連絡がきて「ユリアはデュダコフと行くのは知ってますか?彼女がそうしたいそうです」と言われました。その連絡がきたとき彼女は私の目の前で滑っていました。もし一緒に行きたくないのなら自分で言えばいい話です。最終的にはセルゲイ・ヴィクトルヴィチがいきました。そして私は選手を見放した嫌なやつだ、と言われたのです。そしてフランスから帰ってきてすぐに、ウルマノフのもとへ行く、と言われました。ユリアはブーケをプレゼントして去っていきました。マスコミの報道でウルマノフ・ヴォイツェホフスキーのインタビューを読みましたが、ユリアとのプランを1年先まで練っていたようです。
とはいえ、チョコレートは持ってきたんですね。
ジェーニャ・メドヴェージェワについても言いましたね。私たちはリージスキーのアパートを売ってリンクに近いアパートを買ってリフォームできるようにしました。スケートリンクの近くに住んで、歩いて通えるように…私にではなく、彼女のために多くのことをしたスクールに感謝をしています。あらゆる問題を解決し、試験に合格できるようになどなど、いろんな手伝いをしました。忘れるはずはありません。
彼らは学校に通っておらず、若くて野望がある、とおっしゃいましたね。
まずは野心ある親がいます。しばらくするとその野心が親から子へ移っていきます。
トゥルソワ、シェルバコワ、コストルナヤという私の中ではオリンピックに出場するはず、と思っていた3人娘がいますね。コストルナヤは得意なトリプルアクセルで卓越していましたね。
私もそう思っていました。私も頭の中でオリンピックチームがどうなるか、誰が何を滑るか、考えていました。当時すでにコストルナヤがショートプログラムを滑っている様子を想像していました。彼女のトリプルアクセルは素晴らしいし、滑りも上手いですから。
その後2人は去っていき、シェルバコワは負けてしまいました。そしてオリンピックがあった。あなた自身の中で祝福はしましたか?
私にとっては、リベンジのようなものでした。与えられる最高の料理のようなものです。
彼女たちが去ったとき、何があったのですか?
サーシャ(トゥルソワ)はよくあるように申し訳ない様子でした。疲れてしまったので、環境を変えたい、と言われました。つまり、私たちに飽き飽きした、と。
彼女が戻ってきたとき、後悔していたか、と聞きましたか?
世界選手権で、彼女が私たちの元へ戻ってくるだろう、と思いました。誰かが目線を逸らすのではなく目線を合わせようとしている時には気付きますよね?彼女はそういう態度でした。彼女は自分のコーチ(プルシェンコ)に対して態度が良くなかったので、彼から逃げていました。彼女は1人でストレッチし、1人でリンクに出て、コーチへ近づくこともなかった。気まずい感じなのは良くわかりました。何か対立しているのだとわかりました。
彼女が去っていく前にとても複雑なエレメンツをしたがりました。私たちは彼女に対して、まだ身体的にも技術的にも現実的ではないとわからせようとしました。そのエレメンツは完成できませんでした。世界選手権の前にビデオを流しました。彼女がプログラムをやり始めていたからです。効果はありました。トリプルアクセルが少し良くなりました。やめさせるべきなのかわかりませんでした。私たちは一度トリプルアクセルをやめさせ、彼女はいうことを聞いてダブルステップアップに変更しました。リンクから戻ってきて怒りながら言いました。「プログラムを簡単なものにできない。どっちみち失敗するんだから」と。
戻ってきたとき、どんな状態でしたか?
サーシャはトレーニングし続けていました。「規律が結果を決める。規律がない時は結果が苦しむ」という言葉があります。
当時、あなたたちは受け入れないのではと思いました。
なぜでしょう?来たのがジェーニャ・メドヴェージェワだったとしても、きちんと会話して、できる限りのことを彼女のためにしたでしょう。他の選手にしているのと全く同じことです。選手にとって出戻りがどんなことかわかりますか?選手というものは誇り高く、私たちよりももっと自分大好きなのです。選手にとって出戻りするのはとても侮辱的なんです。自分であったら、そんなことはできなかったでしょう。現役時代、連絡がきて、競技に戻るよう提案されたのですが、すでにその時はアメリカにいました。出戻りして、コーチの目を見ることはできなかった。
最近の2つのオリンピックでのキスアンドクライについてです。オリンピックの金メダルといった最高のご褒美をあなたはもたらし、あなたの教え子が2人も表彰台に上がりましたね。しかし、2018年のオリンピックではジェーニャが感情を抑えきれず問題を抱えていたようです。同じことが北京でも繰り返されました。全世界が、トゥルソワのしたことを目撃しました。何が起きたのですか?トロフィーと教え子の行動をどう捉えますか?
正直にいうと、喜ぶことができなかった。アーニャ(シェルバコワ)のことで喜べなかったからではない。私がアーニャを祝福しなかったと非難されましたが、私はちゃんと祝福してます。単にその前にあったことでみんながショックだっただけです。
ジェーニャ・メドヴェージェワについてです。シーズンが始まり、ジェーニャに、母親に、変化があった。彼らとの距離が遠くなっていくのがわかった。選手の考えや行動に誰かの影響があり、それは誰かしら部会者だとわかるでしょう。
それはオリンピック・シーズンのことでしたか?
そうです。タチヤナ・アナトリエヴナ(タラソワ)がなぜだかメドヴェージェワを助けて助言しようと思ったようです。私に助言するのではなく。私のもとへきて、ここから助言してくれればいいのに。そうではなく、背後からアドバイスしていた。選手に影響を与え始めた。彼女は私たちチームに後ろめたさを感じた状態でオリンピックが近づいた。何度か腹を割って話した気もするけれど、彼女はどこかよそよそしかった。
ある選手があなたから気持ち的に離れていっているのを感じると、あなたは他の選手に集中しますか?
そんなことはしません。全力でやっています。体重を計りたくない選手や1.5キロも体重をオーバーしている選手がいたとして、一日でなんとかできますか?なんとかしなければなりません。そういう状況を克服するには意志をしっかりもつか、母親に手伝ってもらわなければなりません。そしてGPまで2、3週間しかなくてそのGPはファイナルへの道だとすると、どうしようもなくなって、練習に対して投げやりになってしまうのです。今日できることでプラスになることをしようとするだけです。
もしくは、今日フリーがあって、大会に行かなければいけないとしましょう。選手はフリーを滑りたくないと言います。選手にしては変な行動です。というのも13年も一緒にやってきてそんな振る舞いをしたことがなかったからです。突然人が変わったかのようになってしまったのです。
オリンピックに関してもう少し。メドヴェージェワは負けました。そんなトラウマを乗り越えてあなたは奇跡を起こしましたが。とはいえ華麗に滑っていますが。
彼女は華麗に滑っていません。彼女にとっては最近の滑りの中でも最悪なものに入ります。
ですが彼女は嬉し泣きをしていました。
彼女が嬉し泣きをしたのは、とても険しい道だったからです。本当に厳しい道のりでした。スランプ状態からどうやって彼女を抜けさせたらいいのか、もう良くわかりませんでした。
アリーナがオリンピックチャンピオンとなりましたね。その時どう感じましたか?
ジェーニャはもう滑り終えていましたからね…まず、オリンピックに向けて準備をしている時に私たちとアリーナは気持ち的に離れていました。私たちは合宿で日本にいましたが、彼女は離れていきました。エカテリーナ・ボブロワと仲良くなり、まるで違う人になったかのようで、やり取りも変な感じでした。わざと仲違いしたがっているような感じでした。仲違いまでいきませんでしたが。とても不思議でした。ザギトワでありジェーニャではないのですから。とはいえ、ジェーニャもそんな振る舞いをするべきではありませんが。
私たちを同室にしてもらうよう連盟にお願いしました。オリンピックでは3部屋が1つのユニットです。すると入居日にジェーニャがやってきて「あなたと一緒のユニットは嫌。理由は言えません、いい理由ではないから」と言いました。私は誰か他の人がやってくるのを心配しました。というのも私とザギトワがそのユニットにいたからです。でも、幸運にも誰もやって来ず、私たちは2人で同室でした。
ザギトワは私を避けようとしました。なんのためにかはわかりません。そんな状態は彼女の滑りに良い影響は与えなかったようです。彼女の滑りには純粋さや誠実さが欠けていましたから。私は要求がとても多いです。私は徹底的に要求します。できていることともっと改善できることを捉えます。ショートプログラムではもっと良い滑りができたはずです。
メドヴェージェワは銀メダルに対してどう反応してましたか?
キスアンドクライの時点で金メダルを祝福し、私たちはアリーナが1番になるように全てのことをした、と言っていました。私たちはアリーナが1番になるように全てのことをしましたが、ジェーニャが1番になるようにも全てのことをしました。私たちは順位のために指導することはできなくて、スケートのために指導することしかできません。ある滑りに伸び代があると分かれば、次に望むのは選手がスタートに立って、最高のプログラムを滑って審判員が順位をつけることです。
全体的に、皮肉に満ちていました。それ以降は嫌がりました…私たちはラウンジで彼女に近づき、話そうとしましたがすでにオーサーと話していました。その時に、意味がわかったというかなんというか…もちろん、愉快ではありませんが、彼女が去っていくという確信はできませんでした。
オリンピック後インターネットで大炎上がありましたね。ザギトワとメドヴェージェワのファンが尋常じゃない出来事を起こしましたね。
私がやり取りを流出させたと非難されましたが、そんなことはしてません。非難されたのは、ジェーニャが何かのインタビューで彼女に特段注意を向けていない、といったからです。それは嘘です。私は連絡を取ろうとしました。母親に電話がつながって「ジャンナ、何が起きているの?」と聞きました。ジェーニャが隣にいるのが聞こえて、何かの撮影をしているのだとわかりました。ジェーニャに変わるようにお願いしました。本人が電話に出なかったからです。彼女は言いました。「自分の問題をわたしのせいにしないで、あなたの問題であなたのせいよ」と。そして電話を切られました。
その後は皆知るところですね。ブライアン・オーサー、いかに全てが順調かという評判。ところが実際はキャリアの終焉。
そうとは言い切れないね。キャリアの終焉というのは…終わりに向かっていた。彼女は何年もトップにいました。とても難しいことですよ。
次に、トゥルソワの話です。みんなが目撃した…
彼女は確信していました。フリーのプログラムを滑れれば、確実に優勝できると。
ショートプログラムはいまいちだったのに?
そうです。20点多く稼げば良いだけ、と彼女は思っていました。選手はどこがステップアウトか、どこでレベルを落としたかわかっていないのではないでしょうか。そういったことは後からわかることです。さらに4回転ジャンプの減点。4回転ジャンプは本来もっと評価されるべきです。4回転ジャンプの減点は反対です。4回転ルッツの点数はもっと上げるべきだと思います。
GPでサーシャ・トゥルソワは、2位でしたが、1位はコストルナヤでしたね、トゥルソワの4回転ルッツは減点されて0.19点でした。本当に?と思いました。3回転ジャンプを綺麗にきめて、各審査員からエレメンツとして0.25点ずつ稼いで、ジャンプはしないでちょっと一息ついてピルエットをきめる。そうやって4回転ルッツよりも多く稼ぐ。転倒はしたけどそれでも4回転ルッツは4回転。頭がおかしくなったのか?なんでこんな低い点数なんだ?と思いました。ラケルニク・アレクサンドル・ラファイロヴィッチに聞きました。「こんなことがあり得ますか?」と。彼らはこんなように考えたとのことでした。繰り返しと捉えられ、最初のジャンプがコンビネーションではないので、繰り返しと転倒だ、と。馬鹿げています、見直すべきです。大した点数にならないなら、頑張って努力する意味がありますか?
なので、私がコーチであるという以前に、GPファイナルでの2位という結果には納得していません。彼女が1位のはず。私は主張し、説明しようとしました。「0.19点のはずがない。そんなのはあり得ない」と。
トゥルソワは20点巻き返せると思ったがうまくいかなかった。
巻き返せなかった。ショートプログラムは重要じゃない、と彼女は思っていた。彼女は自分が滑れば、チャンピオンになれると思っていた。なので、ああいうリアクションをとったのでしょう。
サーシャはそういう子です。あの場で彼女は私をどつきました。更衣室ではスケート靴を投げつけてきました。私は避けましたが。それがサーシャです。
カミラ・ワリエワについてです。お話しできることはありますか?
今日されるであろう質問は予想してからきましたよ。まず、関わった人を全員、嘘発見器にかけたい。真実が知りたい。どうして起きたのか、何がどうなっているのか、知りたい。疑問がたくさんある。答えはいつまで経ってもわからないとは思いますが。なんとかして受け入れていかないといけないのだと思います。
文字通り「無実でない」選手がどうやってオリンピックに出たのか?
アメリカ、カナダ、日本のチームが、どんなチームでも同じですが、オリンピックに出場すると、その国のフィギュアスケート連盟会長が…まず検査を受ける個室に私たちは入れません。しかし確実にわかっていることがあります。オリンピックに出たということは、潔白であるということです。つまり、検査をしてオリンピック選手として認められたのであれば、潔白なのです。そして、連盟が誰をチームに入れるのか決めます。どの選手も選ばれる可能性があります。誰が選ばれるかは秘密です。というのも、アメリカチームが1番上手い選手を選出しないとなると、私たちも切り札となる選手を選ばないかもしれませんから。誰もわからないので、切り札となる1番上手い選手が選ばれます。誰が選ばれるかはわかりません。ネイサン・チェンが選ばれるかわからないのです。なので他のチームの予想をします。選手はみんな潔白です。本当です。
検査結果があいまいな選手がどうやってオリンピックに出られたのでしょうか?
理論上、滑った後に検査をして、事後的に「潔白であったけれどもオリンピックでは…」ということもできますよね…
ロシア選手権の後に彼女はヨーロッパで検査をしています。結果はシロでした。その後もう一度検査しましたが、シロでした。オリンピックでショートプログラムの後にもう一度して、またその後でもして、全部シロでした。私が疑問に思うのは、結果が疑わしいのなら、なぜオリンピックに出場させたのか、ということです。つまり、出場させるためにあらゆることをしたのでしょうか?そういった選手をオリンピックに出すべきではなかったのでは?
団体戦メダルの見直しはすべきでないと思います。この選手がチームにいたのは誰の責任でしょう?私たちの責任?違います。オリンピックで選手は潔白でした。どうやって彼女がオリンピックに出たのか、というのは誰に対する質問でしょうか?WADA(世界アンチドーピング機構)?わかりません。検査室?であれば彼らにメダルを発行してもらえばいいのでは。チームの責任ではありません。選手がいて、潔白であるはずで、滑りました。スタート時点では潔白でした。メダルは見直されるべきではありません。私はそう思います。
結果のことをあれこれ言う人がいますね。ロシア選手権でドーピングをしたと。アーニャやサーシャが滑っていても、団体戦の結果は同じだったでしょう。彼女たちも勝利を掴んでいたでしょう。
ロシア選手権では検査が変わったものだったと知っていましたか?
いいえ。ロシア選手権の1位から3位までの選手に対しては必ずドーピング検査をして、他にも検査される選手がいるかもしれない、と言うのは知っています。どんな大会でも3位までの選手には必ず検査が行われます。
私の娘のダイアナとグレブは2位になりましたがプールにいませんでした。通知が来て、プールに登録しないといけないと言われました。そんなに簡単なことではなく、12月のいついつまでに公認を受けないといけませんでした。28日までに公認されないといけない、とのことでした。そして1月4日の朝5時にドーピング検査官がインターホンを鳴らしました。その後も来ました。オリンピックまでに3回ドーピング検査を受けて、潔白を証明しました。
ロシア選手権に出場した選手は全員検査をクリアしています。なぜ保留状態なのでしょう?
状況を知ったとき、あなたはどう反応しましたか?カミラはどう反応しましたか?
経緯をお話ししましょう。女の子だけではなくて、ペアも滑っていましたし、ジョージア代表として滑った男の子もいます。オリンピック村から練習場まではバスで40分です。バスまで10分歩いて行って、検査を受けて通過マークを押します。細かい話はどうでもいいことなのですが、とにかくスケジュールが詰まっています。食べる暇もないくらいです。
私は指導を終えて、次の指導まで1時間ほどありました。連盟から呼び出され、とても厳しい声のトーンでした。「すぐに本部に来るように」と。本当に今本部に行かなくてはいけないの?行ってる間に1時間過ぎてしまう、と思いました。せめてお茶を飲んで何か軽く食べようと思っていました。なので「後にしませんか、今時間がなくて」と言いました。が、本部に行きました。最初に目に入ったのが、真っ青で泣き腫らした顔で座っていたカミラです。当時15歳です。
カミラに関してです。私は、子供たちの両親にはどこにでも子供と一緒についてきてほしいと思っています。競技の後、子供たちの責任を持つことができないからです。子供たちが夜ご飯を食べ終えてから、彼らがホテルの部屋に帰るのを見届ける必要があります。送ることはしません。ユリア・リプニツカヤにしていたように送ってしまうと、お互いの関係性が崩れてしまいます。何かを禁止するようになって、避け始めて、関係が崩れて、と言うのは師弟関係もダメにしてしまいますから。プライベートに口出ししたくないのです。リンク上でのコーチでいたいのです。なので、私は両親が送り届けるようにお願いしていました。
全ての大会に彼女の母親が来ていました。子供たちには親がついていました。クラスノヤルスクで検査を受けていました。カミラの練習が始まったのに、母親は更衣室に座っていました。なんだか様子が変なのです。母親はなんだか落ち込んでいるようでした。私は「母親は練習を見にリンクまで来ないのに、なんで来たんだろう?」と思いました。母親はコロナウイルスに感染して、重症だったことがわかりました。クラスノヤルスクの病院に隔離され、リハビリを受けたようです。危ない状態だった時もあったようです。カミラを見た時、母親の状態を聞くのが怖かったです。小さな声で聞いたら、彼女は謙虚なので小さな声で答えました。
そしてオリンピック村で泣き腫らしたカミラの顔を見たのです。最初に思ったのは、母親に何かがあったのでは、ということです。他に何があり得るというのでしょう?
すると、カミラに対して1時間ドーピングに関する取り調べをしていた、と言われたのです。ドーピング?彼女1人だけで1時間も取り調べ?いたのは男性ばかりです。私たちが座ったとき、ゴルシコフ・アレクサンドル・ゲオルギエヴィチもいましたが、今にも心臓が止まってしまうのではと思ったほど青ざめていました。初めて話を聞いたとき、なんの検体の話かわかりませんでした。
そしてカミラをすぐにオリンピック村から出さなくてはならないと言いました。パンデミックの影響でオリンピック村は閉鎖されています。どこに連れて行くというのか?1人で?そんな状況で?私は「15歳の子をどこに連れて行くんですか」と言いました。彼らは「今彼女が泊まるホテルを探している」と言いました。私は「本気ですか?誰が責任を取るのですか?連れてきておいて連れ出すって?どこにも連れ出しません。何をしてもいいですが、カミラはここに残ります」と言いました。彼らは議論し、カミラを残すことに合意しました。そのときに彼女を練習に連れて行けるようお願いしました。彼女は私たちと一緒にバスに乗って私たちがリンクにいるときはホールで待機している、と。彼女の状態が本当に心配でした。パニック状態でした。
「さあ、オリンピック村に残って、バスに乗るとは、いいのか」と言われました。私は「彼女は犯罪者じゃないでしょ。まだ15歳よ。責任を取るつもりはありますか?」と言いました。そんな人はいませんでした。飛行機もありませんn。チャーター機で来たのですから。近い便で16日後とかでした。彼女がホールに行けるよう話をつけました。リンクには出ないように言われました。5メートルごとに警備をつけていました。彼女が飛び越えてリンクに出て行かないように見張っていました。よくわかりません。
そのとき、カミラがホールで沈んでいるのが見えました。ストレスでモチベーションもなくなっていました。ホールでぼんやりしていました。突然、カミラをリンクに出して欲しいと言われました。マスコミがいて撮影していました。マスコミにとっても大事件でしたから。練習できるようになりました。彼女自身が練習したいのか私にはわかりませんでした。ホールにいた時点で、いつもと違う様子でしたから。「カミラ、リンクに出てもいいそうよ」と伝えました。彼女がオリンピックにいることに喜んでもらえるよう元気づけようとしました。彼女に対して「2回目のオリンピックがあるかわからないわよ」と言いました。
彼女が転倒して私の方へやってきて肩を抱いて泣いているビデオもあります。「どうした?」と聞きました、彼女は「滑っているけれど、自分がここで何をしているのかわからない」と言いました。本当にそうでした。彼女はなんのためにその場所にいるのかわかっていませんでした。マスコミは彼女を質問攻めにして疲れさせ、笑い者にしました。「子供を1人でメディアゾーンを歩かせるとはひどい、彼女には付き添うべきだ」とたくさん書かれました。でもオリンピックです。コーチにはどこのゾーンに行くにも許可が入ります。選手はリンクから出るとすぐに更衣室へ向かいますが、そのゾーンは私たちは通れません。オリンピックなので、全てが厳重です。行きたいところに誰とでも行ける、という感じではありません。
私は彼女がフードをかぶって隠れているビデオを観ました。翌日、彼女は付き添ってもらいたい、と言いました。何か考えて彼女に付き添いました。初日は彼女は1人だったのです。
その後、彼女は競技に参加できると言われました。もはやよくわかりませんでした。彼女は準備できていませんでした。ざわついていた日は全く滑っていませんでした。それまでは調子を保っていました。いいコンディションだったのです。すぐにダメになってしまいました。ストレスと練習不足でホールデは何もできませんでした。彼女に参加する権利は与えられたのですが、フリープログラムの日に彼女は私にあるものを見せました…オンラインボードがあるのですが、「エテリコーチ、見てください」と彼女が言いました。ボードの下部に大きな文字で書いてありました。「カミラ・ワリエワがメダルを獲得した場合には表彰式は行わない」と。こういったことはボードに書く必要があるのでしょうか?どこか別のところに記載するか、内部情報として通達するか、といったことはできなかったのでしょうか?私もその文字を読み、アッと叫び声が出ました。私が彼女の立場だったら、リンクに出なかったでしょう。
とはいえショートプログラムを終えた時点では彼女が引っ張っていましたね。ショートの滑りは理想的なものでしたか?
いいえ、すでに取り乱していました。もっと高得点だったはずです。フリーはまた違いましたが。
私の素人的な理解では、カミラ・ワリエワはあらゆるエレメンツでフィギュアスケート界最高のシングル選手だと思います。「人間離れした才能になぜそんな仕打ちをするのか」と考えます。スポーツ選手として彼女の将来のプランにこの件がどう影響を与えるのかわかりません。
わかりませんね。もう彼女の人生には影響を与えていると思いますが。私たちの人生はプロのスポーツ選手として終わるわけではありません。今回のことは彼女を大きく変えました。これまでは正直な子供でした。たとえば、私が「カミラ、ショートプラグラムの日に何があったか話なさい」というと、ボランティアがアイスをくれたとか。チェクマレフのマッサージ師が「リプトン」をくれたとか、誰かが何かをくれた、とか話していました。私は「本当に?アイスも食べたし、紅茶も飲んだの?そんなことしたの?カミラ?」というと、彼女は「わからない。あったかもね」と、そんな感じでした。
今ではもう誰も信用できないでしょうね。そういった意味で彼女は変わりました。彼女が唯一無二の存在か、ということについてはファンから文句を言われそうですね。まず、熱狂的なファングループはコーチチームのことも愛して尊敬するべきでは?私たちがファンが愛している人を作り上げて育てて、ファンの人生を彩っているのです。私たちに対する敵意は馬鹿げています。
カミラ・ワリエワに関しては、万能な選手だと思います。彼女にはあらゆるものが備わっています。華麗に滑るし、リンクを自分のものにします。彼女は一握りのうちの1人です。たとえばコストルナヤも華麗に滑ります。まさに滑走です。これは難しくて、誰にでもできることではありません。感じられる人も感じられない人もいます。そして、カミラには自然な柔軟性もあります。柔軟性があるとジャンプが通常はジャンプが上手くないのですが、彼女はトリプルアクセルも4回転もできます。彼女は音楽にのって華麗に感情を伝えることができます。彼女は万能なのです、そういった意味で特別感のある存在です。
ワリエワのような選手が現れるかどうかはわかりません。もしかしたら現れるかもしれません。でも私たちのもとには彼女のような選手はこれまでいませんでした。今後もいないでしょう。どんだけ真似ても、マイケル・ジャクソンにはなれないのと同じです。羽生結弦のような選手も現れないでしょう。カミラ・ワリエワのような選手も。彼女に向けられたもの、大きな愛は残念ながら敵意になってしまいましたが。
フィギュアスケーターの子を持つ親は全員、あなたのことを追っているでしょう。何かしらアドバイスをいただけますか?
家庭で子が育っています。夫婦間での言い争いもあるでしょう。言い争いを子育てに持ち込んでいませんよね?もしくはそういった問題を隠して配偶者を完璧に信頼しているように見せていませんか。母親が父親を完全に信頼しているように、もしくはその逆もです。子供がいうことを聞いて、子育てに関してある決まり事があるのだとわからせるためには、夫婦がお互いに尊敬することが必要です。親とコーチは夫婦のようなものです。
子供が帰ってきて、親がお茶を飲みながら電話で「今日、夫がこんなことを言ってきて、頭がおかしくなったみたいで、違うことを子供にやらせて子供は疲れてるのに、夫はそれに気づかなくて…」といったことを話していると、子供はそれを聞いてコーチへの信頼がなくなります。そしてコーチが課題をやり直すように、滑り直すように言うと子供は「どういうこと?今は「違うことをさせられてる」のか「コーチがおかしくなった」のか?」と思います。子供は信頼感をなくしていきます。信頼しなくなると、いうことを聞かなくなり、やらなくなります。そして子供がやることもうまくいかなくなります。というのも本当にやりたいという思いがないとうまくいかないからです。
親は無意識のうちに、運転しながら、子供が聞いていないと思って夫や祖母と話します。そういったことは全て影響を与えます。そういう話は2人きりですべきです。親がハードな練習やお仕置き、たとえば子供が練習でふざけていて追い出されることがあります、に賛成していなくても、です。親は賛成しているかいないかではなく、コーチを支持するのです。その上で、コーチのもとへ行って「何かやり方を変えるべきでは?」と話すのです。子供がいる前でコーチのやり方を疑うべきではありません。そうしないと子供は言うことを聞かなくなり、上達しなくなり、全てが終わってしまいます。
残念ですが、こういった崩壊はよくあるし、その後に待ち受けるのは私たちのもとを去っていく、ということなどです。親の方から不満がはじまって、親が首を突っ込んで影響を与える、と。
正直にいうと、どんな選手でも、自分のことを上手いと思っていなくても、親とコーチがどうにかしてメダルを獲得させられると思います。コントロールされているとかそういったことは関係なく、メダルの元へつれていくのです。リプニツカヤは母親とコーチがメダルへと導きました。母親が然るべきふるまいをして、やることをきちんとやり、厳しく教育したので、なんとかしてメダルに辿り着きました。アンナ・ザギトワの祖母もです。アンナの練習中、祖母は離れることはありませんでした。アンナが地下のトレーニングルームに行くと、祖母は廊下で待っていました。アンナがリンクに出ると祖母はリンク付近で待機していました。何かうまくいかないと、こうやっていました。(手でジェスチャー)
ジェーニャ・メドヴェージェワがブラブラしだしたとき、彼女の祖母がリンクの側でレズギンカを踊って跳ねていました。何かを叫び、ジェーニャは何か答えていました。そうやってジェーニャを元気づけ、ジェーニャは起こりましたが取り組み始めました。
こういったことは共同で行うプロセスなのです。親はいい結果をもたらす場合もありますが、適当でない場合もあります。
まだまだお話ししたいテーマがたくさんありますが、今後のこととして、次のオリンピックについて…
2030年に行われる?
次のオリンピックがどれになるかわかりませんが…
いずれにせよ2030年に向けて誰かしらを育て上げたいところですね。
あなたとお話しするのはとても面白いです。違うスポーツの同僚から何かを知ることができるのか、というのは常に言われていることですね。単なる同僚ではなく、本当に偉大で卓越したコーチですが…
褒め言葉はなしにしましょう。
まだスーパーペアのダイアナ・デイビスとグレブ・スモールキンについてお話ししていませんね。
まだですね。(笑)
今回のインタビューを引き受けてくださりありがとうございました。コメント欄がどうなるかわかりませんが、私が尋常じゃなく楽しかったです。このブーケはあなたの美しさと偉大さの10%にも届きませんが、受け取っていただいても、いただかなくても結構です…
ロビーに飾ってください。ちなみに女の子たちは、ブーケをロビーに飾るという私の癖を受け継いでいます。なので、ロビーにはそこらじゅうにお花があることもあります。私のお気に入りです。(微笑)
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