ミハイル・コリヤダは、フィギュア界の集団的な幻想の最大の犠牲者だ。先日、彼はキャリアの休止を発表した。
彼へ向けられた感情的な発言はすべて、これまでどうであったか、そしてどうでなくなるか(普通の健全な別れ)についての後悔ではない。
そうなる可能性があったのに、そうならなかったこと、そしてこれからもそうならないことについての後悔なのだ。言い換えれば、起こってもいないことに対する後悔だ。そして、これはすでに不健全なことなのだ。
人々はコリヤダではなく、コリヤダの神話を見送っているのだ。アリョーナ・ドレツカヤはかつて、報道以外のジャーナリズムは神話を作るものだと言っていた。そして有名な哲学者であるロセフは、神話は現実でもあると言った。しかし、コリヤダの神話は極めて分裂的なものである。
人々はコリヤダではなく、叶わなかった宇宙への要望を見送っている。なぜなら、その要望というのは正気の沙汰ではないからだ。それは「完璧なスケーター、アイドル、フィギュアスケートの神様を私達にください」ということなのだ。
1)コリヤダのキャリアが始まった当初、集団的な無意識が宇宙に送ったは要望はもっと単純に聞こえた。「コフトゥンのような発作的な奴ではなく、男らしい奴が必要だ」というものだ。こうして「安定したミーシャ」と「不安定なマキシム」の対立が生まれた。
2)そして、その要望は「男らしい奴が必要で、しかも羽生やフェルナンデスのようなジャンプが必要だ」に変化した。そこで「ミーシャのフリープログラムで、3つ~4つの4回転を待っているぞ」と設定が大きくなった。
3)そして、その要望に「氷上で舞うように滑ることも必要だ」が加わった。こうして「無限の才能」というパラダイムが生まれた。
概して、コリヤダは3つの要求のどれにもうまく合致しなかった。安定性はコフトゥンのものになり、フリープログラムでの定期的な3つ~4つの4回転もなく、氷上で舞うことも、ミスの連続によってその効果は大きく損なわれた。そして残されたのはただひとつ、ミハイルをありのままに受け入れ、いくつかのディテールを誇張させたものとして称えることだけだった。かつて私がコーヒーの泡と呼んだものだ。
コリヤダはまた負けた。しかし、この何とも言えない視線。
実際、ミハイルを受け入れる段階は、彼を競争プロセスから外すことへと変化した。最も熱狂的な人々が、彼が素晴らしい(美しく、神々しく、才能がある)ので、どの順位であっても関係ないと言った時、彼はまるでスポーツから外れた存在のようになった。彼はかつて、ホワイトクロウの衣装で、ウォームアップ中のジャンプで華々しく着地した。「硬い氷まで凍りついた」と、コリヤダに捧げる詩の中で、ファンがそのように書いた。
しかし、ミハイルを競技としてのフィギュアスケートから嗜好品としてのフィギュアスケートに避難させるというアイデアは悲惨なものだ。それはもはやフィギュアスケートとしての真の競技ではなく、まるで準芸術的なものだ。そしてそこでは、芸術の存在それ自体ではなく、芸術を見たいという欲求が最優先となってしまっているのだ。
コリヤダよりも優れていたのは、少なくとも羽生、フェルナンデス、チェン、パトリック・チャン、ミハル・ブレジナ、キーガン・メッシング、フローラン・アモディオ、ケビン・アイモ、デニス・テン、そしてドミトリー・アリエフだろう。
ブレジナ、アイモ、アリエフについては議論があるだろうが、それでもやはりコリヤダは8番目になるだろう。2018年の団体戦のショートプログラムのように。
もしコリヤダが技術的にもパフォーマンス的にも多くの人に劣っているとしたら、大衆の意識のどこにコリヤダを避難させればいいのだろうか?
神話だが、ただの神話ではない。失敗した神話だ。「あと少し、そしたら…」、「もし状況が違っていたら」、「もしあの時こうだったら、コリヤダのキャリアはどう変わっていただろう」という領域なのだ。それは一般的には、存在しないものの領域である。
だから、コリヤダを見送るとき、まるでランビエルやソレンティーノを見送るかのように美しい言葉を書き連ねる人たちの気持ちがわからないなら、忘れないでもらいたいのは、彼らは夢を見送っているのだということだ。それは彼ら自身の、彼らだけが知っている夢なのだ。
ミハイル・コリヤダ自身は、自分のスーパーフィギュアスケーター、スーパースポーツ選手としての地位を信じているようだ。彼の、人々や報道陣とのコミュニケーションのスタイルは、彼の崇拝者たちからは閉鎖的だとされているが、実際は嫌悪感や敵意を隠すためのものであり、それは「創造者」の一種の症状なのだ。
キャリアにおける主な失敗(2018年オリンピックの団体種目での8位)についてジリジリと尋ねるマキシム・トランコフに、彼が言った言葉がある。
「何が起こったかについて、全く口をつぐみたくないの?一般論として。」
「じゃあこう言ってみよう。まずは団体種目から。僕の演技は基本的に役割を決めるものではなかったし、いずれにせよみんな銀メダリストになっていただろう。もし僕が完璧な演技をしていたとしても、僕たちは銀メダリストだった。以上。終わりだ。」
いいや、ミハイル。まだ終わっていない。続いているのだ。もうひとつの羞恥心という終わりのないナルシシズムで満たされた部屋への扉が。
明らかに失敗している状況でも、他の選手も優れているのだからと言おうとする。そして、そこにいたのは自分だけではなかったと。そして、どちらにせよ負けたのだから、チームメイトにも同じように責任があるのだと言おうとする。そして、僕のことは放っておいてくれと。つまり、チームとの連帯感よりも、自分の心理的重荷を取り除くことに関心があるのだ。それでも少なくともチームについては正しい事を言っているかもしれないが。そしてこれは彼の言葉であるが、多くの選手が当時彼を応援していたのだ。
今世紀のロシアスポーツ界の最もナルシストとされる、フョードル・スモロフでさえ、2018年ワールドカップでの馬鹿げた「パネンカ(ペナルティーキック)」の後にそんなことはしなかった。彼はジョーダンの名言をつぶやき、そのために国中から食い物にされかけた。しかし、ここでは話が違う。フィギュアスケートだ。ファンたちは泣き言を言い、さらに詩を書くだろう。
ミハイルは被害者であること、理解されない存在であること、誰かの夢であることが好きなのだ。たとえそれが最も奇妙で、ゆがんだ、病的なものであっても。そして満たされないものであってもだ。現実とは何の関係もないものだ。現実というものは、コリヤダに対するもう一つのヘイトに過ぎないのだ。
「叶わぬ夢ほど魅力的なものはない」私はかつて、ハビエル・フェルナンデスの引退記事にそう書いたことがある。7度の欧州チャンピオンで2度の世界チャンピオンの彼。私のフィギュアスケートにおける夢は彼によって具現化されたし、他の誰かの夢はコリヤダによって具現化された。
きっと、怒りっぽくて自己陶酔的な者があなたの夢を背負っているというのは悲しいことだ。その彼は、欧州選手権での勝利はハビエル・フェルナンデよりも7回も少なくて、エフゲニー・プルシェンコよりも7回少なくて、ブライアン・ジュベールより3回少ないのだ。さらに、トマーシュ・ヴェルナー、フローラン・アモディオ、マルク・コンドラチュク、ドミトリー・アリエフ、アダム・シャオ・ヒム・ファより1回少ないと来ている。
その彼の欧州選手権での優勝は、世界選手権とグランプリファイナルの優勝回数と同じ数である。
それは0回だ。
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