シェルバコワのフリーは何かおかしい。
2月15日オリンピック個人戦で女子シングルSPが始まる。ロシアからは最高レベルの女子3人がエントリーされている。アレクサンドラ・トゥルソワ、アンナ・シェルバコワ、カミラ・ワリエワだ。
Match TVは彼女たちのオリンピックへの音楽を作曲家アレクサンドル・ゴールドシュタインと共に分析する。彼は長年フィギュアスケーターと共に取り組んでいる。彼のクライアントの中には、サラ・ヒューズ、ミシェル・クワン、サーシャ・コーエンやブレイディ・テネルら異なる年のオリンピックメダル所有者がいる。
- ・なぜ「フリーダ」はトゥルソワの新たな一面をみせるのか、一方でFSにおける音楽とエレメンツの弱いつながり
- ・何のためにシェルバコワのプログラムでアポカリプティカ、コルネリュク、ラクリモサが混ぜられているのか
- ・ワリエワのプログラムの選曲がどれほど成功だと考えられるか
アレクサンドラ・トゥルソワ
ショートプログラム
— 作品はエリオット・ゴールデンサールの映画『フリーダ』への音楽の一部で作られている。この映画は画家フリーダ・カーロ、強い個性、非凡な強い意志を持つ女性についてのもの。同映画の音楽は輝かしい断章で満たされているが、このプログラムにおいては落ち着いた緊迫感に力点を置いている。なので、『フリーダ』のトラックが頻繁にフィギュアスケートで使われてきたけれど、ここでは多くが初めて演奏される。これは十分に大胆な決定だ。実際に伴奏のないボーカル曲から始まり、とても澄んだギターのテーマとボーカル入りのタンゴがプログラムを継続する。
音楽と振り付けの一致は最大限だ。スペイン的な特色が大きな趣を伴って描き出され、度を超えることはなく、プログラム中ずっと現れている。腕は映画の主題の痛みと重苦しさを伝えるようで、まれだ。
要素は全体として音楽と調和している。序盤のジャンプがソロの声を背景にあらかじめ組み合わされ、その後スピン、ステップそして3つ目のジャンプがまさに音楽に向けて振り付けられている。アレクサンドラの動きのテンポは軽く音楽のテンポを追い越していることについては、ただ同選手の速さの印象を強めているのみだ。ステップはとても首尾よく楽器の負けを覆っている。結果として、『フリーダ』の選択はトゥルソワの演者の可能性を広げた。
フリープログラム
—音楽構成は現代映画『クルエラ』からの3曲に基づいている。プロットに沿って歌や曲が20世紀の60年代や70年代のパンクロックのスタイルで存在している。音楽はとてもダイナミックで明るい。そのぎこちなく感情的な性質は、トゥルソワの4回転ジャンプ実行における最大限の可能性を実現させねばならないプログラムを作る者の注意を引いたようだ。滑りそのものの終わりはクライマックスの最後の和音にはなく、静かな終結へと去っていく。まだ何年か前にはこの様な終わりは絶対的に容認され難かったが、今は普通だと評価される。
スポーツ競技会において音楽全体が初出である。これは総じて選手が選ぶ中では珍しい様式。似たような緊迫度合いは“ロケットの”推進力なしには伝えるのが難しい。
音楽と振り付けの調和に関しては、プログラムの新しい部分への移行の間だけ非の打ち所がない。全体として、全体のスタイルもアレクサンドラの手の動きもパンクロックスタイルを強く反映していない。プログラムの全体の構想が4回転ジャンプやコンビネーションジャンプの実行に集中する時、重要な振り付けの充満をまつ必要はない。エレメンツにおける長い助走の間のほんの数秒で実際にできることは少ないが、そのような試みは勿論ここにある。
私の目には、音楽と要素の組み合わせはとても弱い様に見える。音楽はエネルギッシュな背景としてだけ使用され、エレメンツとの結びつきは、計画されなかった様に思う。三部目の最初のジャンプとステップだけ素晴らしく音楽と調和している。トゥルソワの心では『クルエラ』のテーマは大きな共鳴を見出しているようだ。音楽が選手の個性に素晴らしく合致していることを側から確認するのは難しい。でも他の状況では、その様な技術的な義務なしに、このフリープログラムのように、ロックミュージックが彼女に適することもありうる。
アンナ・シェルバコワ
ショートプログラム
— 音楽構成はイスラエル系アメリカ人作曲家イノン・ツゥールのスタイルの類似した2つの作品を集めたものだ。今彼は基本的にコンピューターゲーム向け音楽を創作している。プログラムの間中私達は多くの予想外の一時停止を伴う早いテンポを耳にする。世界レベルの競技向けでは珍しくユニークだ。これはこの様なとてもエネルギッシュな音楽により多くの緊迫感と重苦しさを与える。プログラム作成者がロシアのフィギュアスケート選手のために踏み固められた小道を行かず以前誰も使ったことがないような新しい音楽を見つけたのは良いことだ。
編集された音楽は理想的だ。一時停止はプログラムの初めでいい仕事をし注意をひいたが、最初のテーマへの帰還に際し動きを中断しないためにその一時停止の量をリズミカルに埋められることができた事を除いて。でもこれは好みもしくは可能性の問題。そこでの音楽的リズムの加速は必須ではない。
音楽選択の素養は、現代技術と、映画やコンピューターゲームのための音楽録音の傾向が、フィギュアスケート音楽の課題と一致する点にある。それらはほとんど大きなアリーナでの再生のために補足的に適応させる必要がない。なのでこのプログラムの音質には疑いがない。全て均等で鮮明な音を出す。
音楽の早いテンポのおかげで、音楽は申し分なく振り付けと調和している。そこではアクセントが沢山ある。早くてリズミカルな音楽でも十分実行できるレベルの振り付けの素養がアンナにはある。スケートとエレメンツの実行の速さのおかげでそれらの音楽への結びつきは素晴らしいものとなった。それら全ては効果的で論理的に見える。ジャッジはステップの入念さをとても観察するので、フィギュアスケート選手の大多数のためにゆっくりな音楽が選ばれるが、一方シェルバコワは早くても問題が起きない。
フリープログラム
このプログラムの音楽構成のアイディアはわからない。3つの全く異なるジャンルの作品が説明がつく筋書きもしくは何らかの不可分な総体に収まっていない。音楽の意義を咀嚼せず、何年も前に総じて教養があるわけでもないコーチ達がプログラムを作った。だが今日になって似た様なものを耳にするのは変だ。この音楽の全ての断片がそれ自体ではとても素晴らしい。最初の部分、Ruska(秋の色)はフィンランドのメタルグループApocalypticaのもの。Apocalyptica(黙示録)はユダヤ神学もしくは世界的破滅の訪れを語るSFジャンルだ。第二部イーゴリ・コルネリュクによる映画『巨匠とマルガリータ』へ向けての『悪魔の舞踏会』、第三部はモーツァルトの『レクイエム』より『ラクリモサ』(涙)のテーマの加工。共通の目論みを解明するため翻訳を引用する。もし最初の2つの部の連結はまだ同意できるとして(神秘主義の要素を伴う現代音楽)、そこに付け加えられた第3段階が理解へ向けての希望を打ち砕く。
全ての列挙された作品は以前フィギュアスケート選手のプログラムで使用されたが、でも勿論、一緒にではなかった。なのでこの様な組み合わせの音楽は新しい。
音楽と振り付けの調和は常にあるわけではない。第一部で、なめらかなメロディーと早い拍動的なリズムが配合される時、一致があるが、でもここではジャンプは振り付けまでではない。
素晴らしいパントマイムが第二部への移行にある。音楽の性質が変わるが、動きのスタイルはそうではない。最後の部分の三拍子のリズムは多くの箇所でステップに調和している。でも全体として、結びつきは多くない。シェルバコワは対照的な音楽にも関わらずこのプログラムにおいて十分にイメージを1つにまとめているものの、シェルバコワの表現力が助けになっている。しかしそれでも彼女の生まれながらの上品さが全体の印象を良くしている。
エレメンツもまた音楽に完全には調和していない。第一部での一致はメロディーの新しいフレーズを狙ったダブルアクセルだけ。第二部では音楽はコンビネーションジャンプと最後のジャンプをとても助けている、とても音に合っている。プログラムの最後には音楽はとても最後のスピンに合っている。
カミラ・ワリエワ
ショートプログラム
— 音楽構成は1つの作品に基礎を置いている。キリル・リヒターの『In memorium』(追悼のために)。大きな高まりのない叙情的で少し悲しげな音楽は、雰囲気を伝え視線を自分に集めるためには卓越した表現力を必要とする。ましてやメロディーの最後は音が徐々に消えていく、以前はどんなプログラムでも必須条件だった強調ではなく。カミラのもとでは最後の音までイメージに留まることに素晴らしく成功している。
この音楽が書かれた『新時代』ジャンルは今とても若いロシア人フィギュアスケーターの間で人気。少なくともこの新しい作品は、私達は大きな大会では初めて聞く。
今真実を直視しよう。全エレメンツが音楽に調和しているか?最初のスピンだけだ。残りのメロディーはエレメンツの実行の「邪魔をせず」、際立たせもしなかった。これは音楽選択へのとても適切なアプローチで、そこでは音楽がただ感情面でのみ役に立ち何も示唆しない。あらゆる状況においてワリエワの非凡な造形美はエレメンツと音楽の非調和の印象を弱める。
フリープログラム
— 音楽構成はロンドンシンフォニーオーケストラによるモーリス・ラヴェルの『ボレロ』からなる。このオーケストラはライトなクラシック音楽に特化しており、このオーケストラのために多くの作品が書き直されている。まさにこのボレロもその1つ。半分に短縮されオリジナルのかすかな音が取り去られている。エネルギーが神秘主義にとってかわり、そしてこれはプログラム作成者の思う壺にはまっている。加えて彼らは少し全体のテンポを速め、それにより音楽にもう少しダイナミックさが加わった。
『ボレロ』は、勿論、フィギュアスケートにおいて新人ではない。最初にアイスダンサーたちがこれを使い、その後ペアやシングルにも広まった。多くの人々がこの音楽で素晴らしい滑りをした、なのでこの曲に取り組むのはとてもリスクを伴った。でもワリエワには当てはまらない。自身の実施によって不朽の名作から新たな感覚を与えることができるリーダーたちには、全てが許される。
どうして音楽の始まりが弱い部分からなのか、私はあまり理解していない。これはボレロの特徴ではない。私が見出せる唯一の説明は、この拍子が選手に始まりの合図を告げているということだ。残りの部分では音楽はとても良質に編集されている。振り付けとの調和については、カミラは、言っている通り、音楽をひっぱり自分から注意を離させないことができる演者の1人だ。彼女のプログラムで振り付けの要素は少ない、なぜなら傑出したジャンプが時間の大半を奪っているからだ。その代わり同選手の生まれながらの造形美が空虚な印象を残さず、現れたイメージを保つ。
『ボレロ』の音楽は、ワリエワの個性を明らかにする目的というより、プログラムのスポーツ的課題に調和している。彼女の才能はより広い感情の幅を表現することを可能にする。
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