2月13日、ソ連フィギュアスケート功労コーチのタチアナ・タラソワが75歳になった。
5年前、自身の70歳記念の際、タチアナ・タラソワが2部にわたる大インタビューをイーゴリ・ラビナーより受けた。その中から、コーチに関する大議論についての部分をご紹介します。
— お父上に、あなたを誇りに思うと言われたことはありますか?
タラソワ:ない。何を誇るの?私たち家族には目標があった。個人個人が、できることをする。全力で。これはまさにその通り、なので、何を誇るのか?5度目の五輪での勝利の後、彼は私にこう言った。「やあ、仲間よ」と。
そして母も誉めなかった。私にはこれが心地よくなかった。これは私たち姉妹があまり好かれていないということではない。まさにその反対。でも母の方から誉めたことが一度あった。それは別荘でのこと。彼女は静かに座っていて突然話した。「ターネチカ、あなたは何て良い子なの!自分の手で私たち皆にとって素晴らしいこのような別荘を建てたとは。」これは依然として鮮烈。そして私は記憶していた。もし頻繁に誉められていたら、記憶に刻み込まれていなかっただろう。
— お父上はあなたをコーチ道へ導きましたか?あなたが将来の滑りにとって致命的な深刻な怪我を負った後に。
タラソワ:ええ。私は悲しみに暮れ、父がそこから引っ張り出してくれた。そこに長く耽っていられなかった。踊りたかった、学びたかった、そして「白樺」に入った、モイセーエフの集団に。でも私の手はまるでぼろ布のようだった。そして父は「リンクへ行け、自分の友達を手助けしろ。コーチも悪くない。子供らを連れてこい、もし良い働きができたら、一生幸せになるぞ」と。そうしてこうなった。
両親がどのように子供達を私のもとへやらせたのか知らない。私は20歳、ましてやモイセーエワとミネンコフは12−13歳だった。私は白い靴下に白い「友情」スリッパを履き、更紗の短い水玉ワンピースを着ていた。どこからそのような不遜な振る舞いが出てきたのかわからないが、でも既に当時の私には彼らは世界チャンピオンになるという絶対的な自信があった。その上私達はオープンリンクでのみ滑り、開放されていないリンクはまだ許されなかった。
重要なのは、私には責任感があった。ロストフ・ナ・ドヌーでの合宿を覚えている。そこには、行方不明にならないために彼を探して森中を駆け回らなければならなかったヴォーヴァ・コヴァリョフ(その後の世界選手権2度優勝者、インスブルック五輪銀メダリスト)を含め子供が36人いた。そこでの食事は悪かった。当時私は向かいにある市委員会の建物へいった。赤い絨毯に沿って階段を越えて容易に主要執務室へ走っていった。「お嬢さん、どこから来たの?」「必要なところから。」そしてこの日から良い食事を与えることができた。
あなたを取り囲む子供達は、これを見ている。何かが彼らを打つ。彼らはあなたの熱狂や彼らへの心配りを馬鹿にできない。そして、もし彼らが14歳から量り売りのワインを飲まなけば、結局彼らにとってそちらの方がより良い。なぜなら私がその樽の周りに立つからだ。
— あなたは、俳優になりたかったようですが、お父上は許さなかった?
タラソワ:俳優ではない。私は舞台芸術アカデミーのバレエ振付師コースへ行きたかった。しかし父が母にこう言った。「ニーナ、我々に芸術家はいない、我が家にはいなかったしこれからもいない。」問題は閉じられた。結局私はこの学術に人生の途上で入った。私の夫ウラジミール・クライネフ(優れたピアニストであり音楽教師)は、私は音楽を聴くのが上手いと言った。たくさんのバレエ劇を観て、イーゴリ・モイセーエフのリハーサルへも許された。国立クレムリン宮殿劇場の全段に座り、全てを1000回観た、ボリショイ劇場と同じく。何かが私を打ち、変容した。総じて、とてもたくさんの振り付けをした。これは私の大好きなことだったし、今も大好きなことであり続けている。そして何よりも振り付けしていなくて寂しい。
私は父の栄光の裏側を見た。彼がどう働くか、どう尽くすか。そしてどう苦しんでいるかを。なので初めからこの職業は甘いものではないとわかっていた。でもこんなにも面白く、こんなにも魅了する!同じロストフで私達は友人のイーラ・リュリャコワとリンクを開いた。そこには製氷者も車もない。ホースが2つあるだけ。そこで私は彼女とリンクをきれいにして満たし、そしてそこで滑った。それを1日に4回。1回の製氷に1時間かかる。私達は手が悴むのをわかっていたけれど。
でもこれはそれでもやはり幸せな生活だったし、今もそう。もし近しい人の病気や死がなかったならば。これは最も辛い。でも、多分、誰にでも起こるし、どうにか耐えなければならない。私も耐えた。なぜなら私は生きているから。
— はたして、あなたが始めた時これら全ての「“鷹“も“鳶“を産む」「パパが彼女を何事においても助けているのは知れたこと」というような古典的なステレオタイプは他の職業を選ぶという誘惑を引き起こしませんでしたか?
タラソワ:私はそれらを全く感じなかった。ただ初日から必要なところへいき、幸せ。その上父は新聞「プラウダ」紙に、「フィギュアスケート連盟は、若い女性にソ連代表の仕事を任せてぼーっとしている様だ」と書いた。私は1組引き受け、その2人がすぐに代表の座を得た、ただそうなっただけ。
— お父上が?あなたについて?
タラソワ:そうそう。「プラウダ」紙によ。私は外されるべきだと。
— であなたは彼に家で何もこのことについて話さなかった?
タラソワ:私が彼に何を言えたというの?これは彼の意見! 彼に物申すには私はまだ達していない!彼はよりよくわかっている。その上、多分、これは正しかった。私は、アイスダンスについて何もわかっていない20歳の少女だった。

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