アナスタシヤ・パニナ
このインタビューはリーザ・トゥクタミシェワの練習と練習の合間の少しの休憩中にユビレイニーのビュッフェで書かれたもの。
ビュッフェはホッケーアリーナの建物の中にあり、ミーシングループは練習用フィギュアアリーナで滑っており、彼らは複雑な回廊や渡り廊下で相互につながっている。
リーザはこの迷宮沿いに海にいる金の魚のように移動している。
容易に、自由に。私は彼女の後に従い歩く。
2週間後に全露が開かれる伝説的スポーツパレスの「ユビレイニー」は、エリザヴェータ・トゥクタミシェワにとっては実家のようなもの。
彼女はここへまだ9歳の子供の頃グラゾワからミーシンの合宿にやってきた。
ペテルブルグに越してからはここへ毎日きて練習した。彼女はここで将来を嘱望されるジュニアになり、世界女王になり、2度の五輪選考漏れ、怪我、そしてひどい落胆の後も「ユビレイニー」とは袂を分たなかった。
インタビューからは以下のことを知ることができます:
・緊張を避けるためにどう試合を理解する必要があるか
・長旅で何ができるか
・アレクセイ・ミーシンの素晴らしいところ
・最初の大きな賞金をリーザが何に使ったか
・夕暮れ時に最高の音楽
・グランプリファイナル中止は経験する価値があったかどうか
窓越しのペトログラートカは凍てつき、温度計はマイナス22度を示していたが、私たちはコーヒーを飲みリーザの「小ささ」について冗談を言い合い、2008年以来あまり増えていない電車のプラグを議論し、来たる全露を一緒に心配した。
より厳密にいうと、私は心配し、リーザは緊張をやり過ごすのを助けてくれる言葉をどのように今頭の中で再生させているかを語った。
スーパーウーマン・エリザヴェータ・トゥクタミシェワの重要な才能は、あれ狂った乱気流を、大惨事の実現可能性としてでなく、ジェットコースターのように受け止めることができることだ。
初めての全露で感じた自分のある種の「小ささ」
直近の全露はあなたにとって14回目になりますね。当時も出ていて今も現役アスリートなのはあなただけです。サンクトペテルブルグでの一番最初の全露のことは覚えていますか?
ええ、よく覚えている。これは重要な出来事だった。このような大きな大会は初めてだった。
当時どう心配していたか覚えている。雰囲気全てを覚えている。過ごしたホテル、くじ引き。
私は、多分、他の全露はこの1回目のようには良く覚えていない。実際気に入っていた。なぜなら私が最も若くお姉さん達と話すことや他の人々とやりとりするのがずっと楽しかったから。
「小ささ」を自分に感じた。
超クール。競技自体も忘れていない。
私の人生にとってこれは重要な、記憶に残っているできごと。
当時あなたは12歳でした。全露はその年齢ではストレスに感じられましたか?それともお祭りのように感じられましたか?
いえ、やはりストレス。
子供の頃でさえも。いずれにせよ気にして怖がる。
でも総じて、成長と共に、自身への理解が出てくると、競技会はより簡単によりハイに過ぎ去る。
重要なのは、この高まりをとらえ、不安を注意にかえ、「競うのは面白いんだ」という異なる視点から状況を見ること。
年上と交流するのがいつも好きだったと言っていました。他にも、あなたがキャンプでより年上の友達を追ってリンクへきたという子供時代の話を覚えています。年上との交流はあなたの成長、大人さ、自信に影響を与えましたか?
自信は経験でのみ増していくもので、どのような交流も助けにはならない。
残念ですが。
一方成長においてはとても助けになった、なぜなら同い年とは多くの話題を語ることができないから。
私は人形遊びが楽しかったことがない、代わりにどこかへ走ったり交流したりするのが好きだった。
私より6歳年上の人々と交流する選択があるとわかった時、私にとってはより一層面白かった。これは私のより一層早い成長に影響した、年上との交流も、幼い年齢での両親ぬきでの旅も。
「憧れの対象はいないし今までもいたことがない」
旅についての発言に寄せて。ペテルブルグに最終的に越してくる前に、あなたは何年かスヴェトラーナ・ヴェレテンニコワと一緒にアレクセイ・ミーシンの合宿に来ていた。毎2週間、列車で。行きに27時間、帰りにも27時間。何をしていたの?
帰りの方が楽だった。なぜなら私はペテルブルグでの合宿からヘトヘトで帰ったから。
精神的にも肉体的にも負担が強かった。
道中の半分はただ寝た。そして…当時とても熱中していた『トワイライト・サーガ』を読んで(笑)
加えて、コンピューターを得たタイミングがあって、映画のダウンロードの仕方もそこで覚えた。
でもあまり、強くは救けにならなかった。
その時はノキアの携帯で、ボールゲームが入っていた。このボールゲームはずっとやってた(笑)。
その携帯の魅力は、3日間、1週間だって充電がもったところ。平たく言えば、音楽を聴き、読書し、どこへも行って何かをする必要がないのを楽しんでいた。
好きだった。
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初期のあなたのインタビューのうちの1つで、2008年のものですが、あなたはサーシャ・コーエンや浅田真央が憧れだと読みましたが…
私が知っていた名前のうちの1つだった(笑)
私は恥を晒したくなくて、ただ自身も知っていて且つ話に聞いたことがあった人を選ぶことに決めた。
悪気はないのだけど、憧れの対象はいないしこれまでもいたことがない、実際のところ。
これは若気の至りだった。ミーシン先生もそのインタビューにいて、私が浅田真央とサーシャ・コーエンについて語った時、彼が首を横に振っていたのはいまだに面白おかしい(笑)
インタビュアー:ミーシン先生があなたにプログラムのためのビリー・アイリッシュを送って寄越した時、あなたはどれほど自分のコーチがモードなコーチか衝撃を受けたと話していました。他に彼が驚かせた瞬間を覚えていますか?
彼がどれほど自分の選手を感じとっているかに私はいつも驚かされている。
もし私が悪い気分に入り自分なんて重要じゃないと感じているとして、彼はこれをすぐに理解する。
とても洞察力がある。
時々私達には練習で考えが一致する。私達は何らかの典型的でないシナリオを同じように計画している。
例えば、いつもと違うやり方で何か他のことをやってみようと決める時。
ミーシン先生は私のところに来てこう言う、「じゃあ、今日何何をやってみよう」と。私はこう答える、「ちょうど私もまさにそれを提案したかったところです」と。
保守主義を人から取り除くのは十分難しいように私には思える。特にとても歳をとった人には。なので、覚悟とふっと輝かしい感情と共に彼は全ての大胆で現代的なアイディアを理解すると言うことが驚きだ。
私にこのようなコーチがいることはとても素晴らしい。
(続く)

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