
欧州選手権を2度、ロシア杯を3度制した元フィギュアスケート選手である川口悠子氏がリアノーボスチスポルトのインタビューに応
じた。インタビューでは、同氏の祖国となったロシアと日本の関係がどう悪化したか、アメリカ人がカミラ・ワリエワ問題に熱を上げる一方で日本人は無関心なのはなぜか、同氏のコーチであったタマラ・モスクビナが提案した「ドーピング」とはなんだったのか、川口氏がドーピング検査官に応じなかった経緯について語った。
「ロシアと日本の違いはトイレ」
数年前、フェイスマッサージを行うサロンで働いている、とおっしゃっていましたね。
はい、今日もそのサロンからきました。最近マッサージスペシャリストのコンクールに参加し、準優勝しました。コンクールはサンクトペテルブルクとロシアの北西地域を対象にしたものでした。3位以内に入ったので、年末にモスクワで開催されるロシア全域のコンクールへの出場権を得ました。
つまり、スポーツ選手としてのキャリアを終えてからも、競技には参加されているのですね。
スポーツへの熱狂は今も残っています。もちろん、スポーツ選手でいることもいいことですが、マッサージはダンスと比べられます。施術中に手を華麗に動かすので、私は施術する過程を楽しんでいます。フィギュアスケートはやめていません。今でもアイスショーで滑っていますし、審判員もしています。私にとってスケートリンクは瞑想のようなものです。
20年ロシアにお住みですね。1番驚くのはどんなことですか?
ロシアに来た頃は、タマラ・ニコラエヴナ・モスクビナの一家が私を守ってくれていました。当時は何も分からなかった。ロシアに初めて触れたわけですが、不便さや不快さといったものは一切なかった。今は状況が変わりました。家にいるのではなく、いろんな人と交流しています。そうすると、お互い理解しきれない場面が出てきます。以前は、私は何もわかっておらず、とても狭いコミュニティーで交流していました。
お互い理解しきれないとは?
ロシアでは文化が異なるので、多くが文化の違いによるものですね。
例えば?
説明するのが難しいですね。ロシア人は日本人と違ってオープンです。ロシア人というのは時には度が過ぎることがあるくらい自由です。やりたいことは全てやって、他の人にどう思われようがかまいません。そういった行動はプラスのものだったとしても、周囲の人には受け入れられないかもしれません。最近は自分を愛する、とか、周囲の人を気にするな、といった本がたくさん出ています。でも時々は周囲の人のことを考える必要があると私は思います。日本人はロシア人に劣らず親切ですが、控えめです。初めは、ロシア人は冷たい、と思っていました。丁寧でないからそう思っていたのですが、実際はロシア人は人当たりがいいです。ただ文化が違うだけです。例えば、私はアメリカに住んでいましたが、アメリカでは丁寧さを表すために微笑みます。日本でも同じですが、ロシアではそうではありません。とはいえ、異国間の大きな違いというのはトイレを見れば分かります。トイレを見れば、その国の生活水準がわかります。日本ではとても清潔なトイレが至る所にあります。
ロシアに来た当時と比べて、ロシア国内で変わったことは?
当時は暗くて冷たかった。真冬で、何が起きているのか分からなかった。今はより文明化され、ロシア人もオープンで明るくなった。前は、みんな黒い服を着ているような感じでしたが、今は明るい色が好まれていますね。他のことについても同じように感じます。こういった変化は、ロシアが発展したことと、世界がオープンになったことと関係していると思います。インターネットが発展し、人々がよりコミュニケーションをとるようになって他の国や文化を知るようになりました。
文明化はどういったものにみられますか?
人々が笑い合うようになり、敬意を示すようになった。ホテルやお店でも従業員が丁寧になりました。日本ではお客様は従業員にとって非常に重要な存在ですが、ロシアではお店や銀行の従業員は常にふさわしい態度でいるわけではなかった。そういった従業員はやる気がなくて、上から目線で対応する、ということもよくありました。あと私が気が付いたのは、公共交通機関で若者がお年寄りに席を譲ることです。ロシア人にとっては生まれた時から身についているかのようで、とても自然でスムーズに譲っています。日本人にもそういった資質がついてくれると嬉しいです。日本では席を譲るのは稀なので。
ウクライナ問題で両親と言い合いに
ウクライナでの出来事を追っていますか?
スマホで日本のサイトを見ていましたが、あきあきしてしまいました。ロシアのマスコミ報道も読んでいましたが、今は何も読んでいません。
ここ数年の制裁はあなたの生活や仕事に影響がありますか?
もちろん!故郷に帰ることができないのですから。年1回日本に帰国するのが習慣でした。まず、航空券がとても高くなりました。そして、飛行時間が10時間ではなくなり、乗り継ぎ含めて30時間以上になりました。両親は心配して会いたがっていて、お互い理解しきれないことがあります。両親はテレビを観てヨーロッパの視点から状況を捉えています。私の状況は全く異なるというのに。私は何も知らないし、平穏に暮らしています。これを両親に説明するのがとても難しいのです。家に帰ってくるように、と言ってきます。
そのことが原因で両親と喧嘩をすることはありますか?
一時期は連絡をとっていなかったこともありました。ある用事で連絡をしたのに、すぐにこの件に話が変わり、言い合いになり、気が滅入ってしまったからです。
両親は今もあなたを呼び寄せていますか?
私が日本に帰国することをとても強く望んでいます。
あなた自身は帰国したいですか?
したいという思いはあります。が、今は迷っています。
あなたの帰国を妨げているものは何でしょう?
ロシアには恵まれた場所でのマッサージ師という仕事があるし、地方大会での審判員としての仕事もあります。日本に帰ったら何もないし、全てゼロから始めなければなりません。ロシアには私を知ってくれる人がいるので、生活しやすいのです。ディプロムや色々な書類といった、ここで得たものは日本では何の意味もありません。帰国して、家にいるだけなのは嫌なのです。私はロシアで働くのが好きです。
アメリカはどうですか?
全く考えていません。4年間暮らしましたが、おもしろくありませんでした。
なぜですか?
アメリカでの生活は良かったのですが、興味が持てませんでした。ずっとスケートをしていました。アメリカと日本は文明的な点でほぼ同じような感じです。ニューヨークは東京に似た大きな街です。みんな親切に接してくれましたが、特別惹かれるものはありませんでした。気持ちがアメリカに向いていないのでしょうね。不便さはあるけれど、私にとってはロシアの方がおもしろいのです。ロシアの文化、バレエ、フィギュアスケートが好きなのでロシアのパートナーと組んだし、ロシアのコーチについたのです。
日本のものでロシアにないものは何ですか?
コロナ禍までは母が月に一回大量の仕送りをしてくれていました。最近は郵便制度が機能していないので、3年も日本からの荷物を受け取っていません。もちろん何か日本のものを食べたいのですが、それはなくてもなんとかやり過ごせそうです。本当にできないと思うと、故郷に帰りたくなるものです。
お母さんは何を仕送りされていましたか?
化粧品や洋服といった、生活に必要なものです。ロシアではそういったものは買っていませんでした。というのも私にとっては品質が重要だからです。高級ブランド品は買いませんが、品質が違う、というのはわかります。
ロシアから離れるとしたら懐かしくなるロシアのものはありますか?
スケートリンクと通っているコンテンポラリーダンスです。短期間ロシアから離れるとなると、懐かしくなるのはそれだけですね。
ファンは、裏切り者と非難することはない
タマラ・モスクビナコーチについていましたね。コーチの強さや特徴は?
コーチは知性的で、全てがプログラム化されていました。豊富な経験がありながら若い心を持った人でした。コーチとの練習はおもしろいです。厳しいですが、声をあげたり罵ったり、ということは一度もありませんでした。そういうふうに振る舞うのは怒るよりも難しいことなのに。タマラ・ニコラエブナはユーモアを交えて囁くように話していました。私にとってはとてもためになりました。コーチには常にいくつものアプローチ方法がありました。あるアプローチが合わないときには、100個もの違う方法を見つけ出すのです。
タマラ・ニコラエブナは完成しているペアとはいい結果が出せるが、ジュニアの指導ではあまり成果を上げていない、と思いませんか?
ジュニアとはあまりおもしろくないのでしょう。彼女はもっと高レベルで、創造したいのです。ジュニアは基本レベルでの指導で、必要なのは評価です。創造するにはまだ早いのです。彼女が望むものはもはや芸術です。
彼女と仕事をしたいですか?
選手としてのキャリアを終えた後、タマラ・ニコラエブナのアシスタントになりたかったのですが、その可能性はない、と言われました。もし将来可能性があるのならば、喜んで一緒に仕事をしたいです。
アシスタントとして採用されなかったことは残念に思いましたか?
正直にいうと、いくらか残念に思いました。でも、ペアでは女性コーチよりも男性コーチの方が大きな役を担います。男性は基盤であり、男性のテクニックが重要ですが、私には分からないので自分の感覚を伝えることしかできないのです。また言語の壁もありますね。自分の経験を伝えたいのですが、上手くいかないかもしれません。
あなたなら、国旗や国歌がない中立選手として競技に参加することはできましたか?
私は日本人なので、そういった質問を私にするのは相応しくないでしょう。今では日本のパスポートを持っていないので、私は他国の国旗を掲げて滑っていましたが、心の内では日本人であり続けたし、それは皆さんわかっていたことでしょう。私は日本のために、アメリカのために、ロシアのために滑っていました。ロシア人に愛されている、というのは知っています。こういった状況は全く関心がないというわけではありませんが、落ち着いて捉えるようにしています。
競技に参加できる可能性があるのなら、参加しなければなりません。私であれば、競技に参加したことでしょう。というのも、私の出身をみんなが知っていたからです。どこの国のために滑るのか、は大したことではありません。国旗のために滑っているのではなくて、自分のため、そして観にきてくれる人のために滑っているのですから。競技の参加資格が得られるのは素晴らしいことです。もちろん、国歌を聞けないのは悲しいことですが、可能性があるのであれば滑らなくてはなりません。
オリンピックを含め競技に参加するためにスポーツ選手としての国籍を変えるロシア人スケート選手はたくさんいますが、彼らは裏切り者と言われています。あなたは日本では非難されましたか?
私を裏切り者として非難するメッセージを読んだことがあります。そういったメッセージを発するのはファンではなくて、フィギュアスケートに興味がなくて状況を把握していない人です。もしくは私を知らない人か。川口悠子がロシア代表として競技に参加する、とどこかで読んだ人が書いたメッセージです。経緯を知っていてフィギュアスケートを理解している人は、誰のことであれ、裏切り者と非難することはありません。各自が自分の意見をもっています。マイナスなことを見つける方が楽なのでしょうね。ポジティブなものを見つけるためには努力しないといけませんから。
そういったコメントを読んで残念に思いませんでしたか?
多少は思いましたが、注目されたのであれば有名になったということ、と捉えました。これは喜ばしいことです。すべてのことにポジティブなことを見つけないといけません。
「ワリエワがドーピングをしたのはきっと真実ではないでしょう」
オリンピックを制したカミラ・ワリエワがアンチ・ドーピングの規則を破ったと非難されていて、北京オリンピックでの団体戦のメダルがいまだにロシアチームに授与されていない。少女が意図的にドーピングをするのはあり得るのか?
人生ではあらゆる可能性があるけれども、彼女の状況を考えると、きっと真実ではないと思います。一連の出来事の後にアイスショーで彼女と共演しました。
ワリエワにはどんな印象を抱きましたか?
とても明るくて礼儀がよくて感じのいい女の子でした。才能あふれるスケーターです。誰とも比較することができません。私はワリエワをとても好きですよ、見ていて嬉しくなります。彼女とは特に何かについて話したわけではなく、単に同じ更衣室に居ただけですが。
オリンピックで獲得したメダルを授与するよう要求しているアメリカの選手の気持ちは理解できますか?
正直に言って、彼らの反応が理解できません。
日本人選手もメダルを獲得していますが、なぜ怒っていないのでしょうか?
もしかすると、欧米人の方が自分の考えを表明するのが好きだからかもしれません。日本人もメダルは欲しいのですが、黙っている方を好みます。私もそう振る舞ったことでしょう。もう2年も経っています。こんなことにエネルギーを費やして何になるというのでしょう?今この瞬間を生きる必要があるのです。
つまり、状況が解決されるまで待ったほうがいい、ということ?
そうです。声をあげても変わりません。もしかするとアメリカ人にとっては何かあるのかもしれませんが、日本人はそう思っていないのです。
最近、アメリカのフィギュアスケート選手ヴィンセント・ジョウがロシアではフィギュアスケート選手は大体的にドーピングをしている、と発言しました。そういった状況に遭遇したことはありますか?
実質的に一挙一動を監視するようなドーピング検査官にあたったことがあります。何時にどこにいるのかを言う必要がありました。ある時、朝6時に部屋がノックされました。普通そんな時間に誰か来ることはないので怖かったです。誰も警告してくれなかったこともあり、扉を開けませんでした。彼らは15分間ノックし続け、去っていきました。その後、もしもう一度ドアを開けないことがあればイエローカードが出される、と言われました。検査官は私の電話番号を知っていたのですが、電話はかけてきませんでした。私はただ扉を開けるのが怖かっただけなのです。しかし、私は検査を受けるのを無視した、と言われたのです。これは普通ではありません。その次も検査官は朝6時にやってきました。私は扉を開け、検査を受けました。
詐欺ではないかと疑ってしまうような気がします。
そうなんです、なので検査は大変なんです。
あなたがお話しした状況によれば、監視があるようですね。ロシアで大体的にドーピングをしているというのは信じられますか?
私は遭遇したことはありません。タマラ・ニコラエブナが私たちにチョコレートをくれて、「これがあなたたちにとってのドーピングよ」と言ったことはあったかもしれません。もちろん、これは冗談で、何も加えられていない単なるチョコレートでした。
馴染みのない場所での食事を制限されたり、薬を制限されたり、といったことはありましたか?
薬を摂取しないといけないスポーツ選手もいます。私は何も摂取していなかったので、検査に引っかかる可能性も少なかったですが。医者は必要なものがわかっているので、医者と相談していました。完全に信頼していました。
誰も傷つけないために、イシンバエワは黙っているべきだった
ロシアの棒高跳び選手、エレーナ・イシンバエワは常にロシアを支持していたし、軍人としての称号も保持していたが、今では称号は名目上に過ぎないと述べている。彼女に対して多くの非難が殺到した。エレーナの状況は理解できる?
称号を授与されたことには感謝を示すべきでした。というのもこれは非常に重要なことだからです。私がロシアにやって来た時、私には何もありませんでしたが、功労スポーツ選手となりました。これが何を意味するのかはわかっていませんでしたが、今となってはわかります。そういった称号を保持していることで、さらによく接してくれます。優等生の卒業証書を持っているわけではありませんが、私は大学を卒業しました。すると色んなイベントに呼ばれるようになりました。おそらく、功績のおかげでしょう。日本ではこういった称号は全く意味をなしません。日本の称号もロシアでは無意味でしょう。もちろん、軍人の称号ではなくスポーツの称号の話ですが、いずれにせよ同じことでしょう。
イシンバエワは現在スペインに住んでいる、と報じられています。そういった功績を持つ人がロシア以外に住むことは可能でしょうか?
称号はロシアに住むことを義務付けるものなのでしょうか?自由を奪うものなのでしょうか?この意味では、私は彼女を理解できます。確かに、軍人としての称号を誇りに思う必要はありますが、彼女はスポーツ選手であり、軍人としての行動をしたわけではありません。
称号は名目上のものと言えるのでしょうか?
もしかすると、彼女は本当にそう思っているのかもしれませんが、そういったことは言わないほうがいいでしょう。ロシアで名誉あることならば、尊敬している証としても彼女のようなことは言わない方がいいでしょう。スキャンダルになっても構わないのであればどんなことを言ってもいいでしょう。落ち着いて自分の仕事に取り組みたいのであれば、境界を設けて、他人を傷つけないためにも黙っている必要があります。
ロシアでは大学で国際関係学を学ばれましたね。スポーツ選手にとっては珍しい専攻ですが、なぜ選ばれたのですか?
アメリカからロシアに来た時、初めてのパートナーとペアを解消しました。ロシアに残るために、タマラ・ニコラエブナが進学するようアドバイスしてくれました。彼女はきつい冗談を言いました。「スポーツでうまくいかなくても、せめてロシア語はわかるようになるね」と。この冗談がわからず、泣き出しそうになりましたが、今では面白い冗談だと思います。大学では他の専攻の色んな人と交流し、スポーツ系の学校に進んでいたらできなかったような交流ができました。
今後のプランは?
ISU(国際スケート連盟)に入所したいのですが試験を受ける必要があります。来年、そのチャンスがありますが、今の状況的にどうなるか、わかりませんからね。試験に受かれば、ロシア以外でも審判員として働くことができます。
仕事以外で、あなたをロシアに留めているのは何でしょう?
何もありません。もし家族ができたら、ロシアにいる一つの理由になるでしょう。
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