
浅田真央は歴史を塗り替えた。
多くのフィギュアスケートファンにとって、ソチ五輪と聞いて初めに思い浮かぶのはユリア・リプニツカヤの赤いコートだろう。他にも、ヴォロソジャルとトランコフの「マスカレード」、バーチューとモイアの敗北、羽生結弦の世界初の偉業、あるいはアデリーナ・ソトニコワが優勝した女子シングルでの物議を醸すジャッジを挙げる人もいるだろう。しかし、ソチ大会を、オリンピックで金メダルを獲得するという夢に永遠の別れを告げた偉大なる浅田真央の悲劇として記憶している人もいる。
もしトリノ五輪の前夜、日本の連盟がISUを説得して15歳の真央の出場を認めていたら、彼女の運命はどうなっていただろう。事実、2005年のグランプリファイナルで浅田は、世界チャンピオンのイリーナ・スルツカヤを含むすべての選手を打ち負かした。日本では、浅田がオリンピックでメダルを獲得する可能性は、荒川静香よりもはるかに高いと確信されていた。しかし、ISUは断固とした態度を崩さなかった。正式なシーズン開始時、真央はまだ14歳だったのだ(9月末に15歳になった)。
その結果、オリンピックを制したのは荒川で、浅田はオリンピックの代わりにジュニア女子世界一の座を守ることになった。しかし、2005年に真央が準優勝のキム・ヨナを20.31点差で下したのに対し、2006年ジュニア選手権では韓国側が24点差で制し、圧勝でリベンジを果たしたのだった。
浅田VSキム・ヨナ。その次の2回のオリンピックサイクルの中でのメインのライバル同士。
2005年のグランプリ・ファイナルで優勝したことで、浅田は国民的英雄に近い存在となり、大人気を博すこととなった。彼女がどこかで練習しようものなら、リンクの周りにはすぐにファンが押し寄せる程だった。2006年8月、浅田はカリフォルニアに移り、そこではラファエル・アルトゥニアンが彼女のコーチとなった。ただ、困難がなかったわけではない。移籍と成長期が重なり、真央は技術面で苦労し、トリプルアクセルはしばらく姿を消した。しかし、ラファエル自身が後に語ったように、彼は「真央を必要な位置に保たせるようにした」のである。
アルトゥニアンの協力のもと、浅田は自信のキャリアにおいて初の世界選手権2位となり、日本選手権で2度優勝、グランプリファイナルでは2つの銀メダルを獲得した。しかし2008年初め、二人の協力関係は突然解消された。
「彼女は1月14日に来るはずだった。しかし電話してきて、『行けません。来てもらえますか?』と言われた。私は『どうして?約束したじゃないか。計画があるんだよ』と言った。すると彼女はこう言ったんだ。『でも、来てもらう必要があるんです』私はわかったよと。ただ知りたかったんだ。どういう状況か把握したかった。だからアシスタントを現地に送ったんだ。」
アシスタントは彼女に会いに行き、そこで一緒に滑った。全て順調だった。彼女は2週間そこにいて、そして戻ってきた。『もう来れますか?いや、今すぐ来れますか?』と聞くから私はイライラしてこう言った。『計画は計画なんだ』私は、彼女達が私をからかっていると思ったのだが、単純な話だった。彼女の母親に癌が見つかったんだ。」と、数年後にアルトゥニアンは語った。彼は本当の理由を知らずに2008年初めに浅田との協力関係を断ってしまった。
真央はラファエル抜きで2月の四大陸選手権に臨み、いきなりチャンピオンになった。その1ヵ月後、彼女はシニア世界選手権でキャリア初の優勝を飾った。
その頃、キムとのライバル関係はピークに達し始めていた。キムはグランプリファイナルを2度制覇し、一方浅田は世界選手権で2大会連続で成功した。(浅田は銀の後金、キムはどちらも銅)2008年夏、真央は新コーチにタチアナ・タラソワを迎えることを発表した。真央の母親は、このコラボレーションを長い間夢見ていたと告白した。ただし、タラソワと組むことの効果については多くの人が疑問を頂いていた。というのも、真央は名古屋で練習を続け、常に彼女の側についていたのはタラソワのアシスタントであるジャンナ・フォレだったからだ。浅田は定期的にモスクワに来て、タラソワも時折「弾丸で」来日していた。家庭の事情や健康上の理由から、真央が頻繁に来ることはできなかった。
浅田はグランプリ・ファイナルでキム・ヨナに2ポイント差で優勝し、オリンピック前のシーズンをスタートさせた。その1ヵ月半後、キムは自信のキャリアにおいて最初で最後の四大陸選手権に出場し、浅田にリベンジを果たした。全てが決まったのはショートプログラムだった。キムが1位となり、真央はループが回転不足となり、ダブルルッツだけしか成功しなかった。フリーでは2人ともミスを犯し、浅田はトリプルアクセルとシングルアクセルを跳んだ。結果として、キムが金メダル、真央が銅メダルを獲得した。
ファンたちは世界選手権で対決の続きを見るのを楽しみにしていたが、そこまでの戦いとはならなかった。ショートでは真央がまたもルッツでミスを犯し、フリーではトリプルアクセルとダブルトゥループのコンビネーションでスタートしたものの、その後トリプルアクセルの回転不足で転倒、ループでも回転不足となった。キムもミスを犯しながら(特にフリップ時のエッジが不明瞭だった)滑ったが、銀メダルを獲得したジョアニー・ロシェットに16点以上の差をつけて世界選手権を制した。一方、浅田は4位に終わった。
「また世界チャンピオンにならなければいけないということは考えていませんでした。だたエレメンツを綺麗にやりたいと思っていました。自分の演技には満足しています。キム・ヨナ選手は良きライバルで、彼女の結果は私を前進させてくれます。オリンピックまであまり時間がないので、毎日練習します。」と真央はロサンゼルスでの演技を総括した。
浅田にとって五輪シーズンのスタートは不運なものとなった。グランプリのパリ大会で銀メダル(キムは真央に36点差で勝利)、モスクワ大会では5位、その結果、2005年以来となるグランプリシリーズファイナルへの出場権を得ることができなかったのだ。キムが欠場した際、浅田は四大陸選手権で金メダルを取り戻し、オリンピックに向けた最終段階に入った。
バンクーバー大会のおかげで、浅田は2つのプログラムで3つのトリプルアクセルを成功させた最初のスケーターとしてギネスブックに登録された。しかし、ウルトラCを成功させた浅田は他のエレメンツでミスを犯し、一方キムはほぼ完璧な演技を見せた。結果、浅田は銀メダルを獲得し、キムは世界で初めて「ゴールデンスラム」を達成した女子フィギュアスケート選手となった(アリーナ・ザギトワはその9年後に再びゴールデンスラムを達成した)
オリンピック後の世界選手権では彼女達の場所は入れ替わり、そしてお互いにほぼ同時にコーチも変えた。真央は振付師としてのタラソワと練習を続けることになり、キムはブライアン・オーサーの元を離れることとなった。
浅田のソチでの金メダル争いをサポートしたスペシャリストは、佐藤信夫だった。タイトルを取れないシーズンを過ごした後、真央は2011年のグランプリファイナルの出場権を獲得したが、ケベックで演技するのに間に合わなかった。リンクに出る前、彼女は母親の状態が非常に危険なことを知った。真央は日本へ飛んだが、母親の浅田匡子は娘が帰国する前に亡くなった。母の死から数日後、真央は国内タイトルを奪還する。
オリンピック前の2012/13シーズン、真央は再び安定したスケーティングを見せ始め、グランプリファイナル、全日本選手権、四大陸選手権で優勝した。2013年世界選手権は浅田は銅メダル獲得で去った。そしてシーズン欠場から復帰し、ピンポイントで大会を選ぶようになったキム・ヨナが金メダルを獲得した。
真央はソチ五輪のために、フレデリック・ショパンのノクターン(ローリー・ニコル演出)のショートプログラムと、セルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(タラソワ演出)のフリープログラムという2つのクラシックプログラムを用意した。浅田はそのシーズンを、3連勝(グランプリ2大会と決勝)でスタートさせ、日本選手権で銅メダルを獲得した後、四大陸選手権を飛ばして落ち着いてオリンピックに臨むことを決めた。しかし、ソチでは浅田を待っていたのは失望だった。ショートプログラムで、真央は回転不足のトリプルアクセルで転倒、フリップも回転不足、コンビネーションとならずにループでもうまくいかなかった。初日終了時点では16位となった。
そしてフリーでは浅田は3位に入り、観客は彼女を温かく迎えた。真央は6位でオリンピックを終えた。
4年前と同様、浅田はオリンピック後の世界選手権で優勝した。その参加者の中に、キムはもういなかった。ソチでの銀メダル騒動の直後、キムはそのキャリアを終えたからだ。真央も競技から離れたていたが、1年間だけだった。休暇中に浅田は修士号を取得し、多くの振付をこなした。そして彼女は、どうしてもスケートに魅力を感じるのだと認めた。
復帰後、真央はグランプリファイナルに選出されたが、以前のレベルに戻ることはできなかった。2017年4月、浅田真央は正式に現役生活に終止符を打った。最後の順位は日本選手権の12位だった。
「今日まで、自分のキャリアにおいていろいろなことを乗り越えてきたので、もっと長く演技ができると思っていました。でも、日本選手権の後、キャリアを続ける気持ちやエネルギーが消えてしまいました。とても難しい決断でしたが、新たな目標や地点を目指すためには、この時期を乗り越えなければならないと思っています。」と、浅田は競技スポーツに別れを告げたのだった。
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